ミサの式次第の中には、「聖変化」と言われる箇所があり、それは司祭がパンとぶどう酒への祝別を願いながら唱える箇所です。それを唱える際、司祭は他の箇所よりもそれをはっきり唱えねばなりません。なぜなら、それは司祭自身の言葉ではなくイエス様の言葉であり、その言葉によって普通のパンとぶどう酒がイエス様の御体と御血となること、そして、その聖なる神秘の意味をはっきり伝えるためです。その大事な箇所は、「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである。」そして、「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯。あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である。これをわたしの記念として行いなさい。」という箇所です。これを唱える時、わたしは神様の慈しみと憐れみ、また、イエス様の愛について、より深く黙想することになります。特に、「あなたがたのために渡される」という箇所と、「あなたがたと多くの人のために流されて」という箇所では、神様への思いがもっとも深くなります。なぜなら、この言葉には、世の中のだれひとりとして願ったわけでもないのに、神様はご自分の独り子を「わたしたちのために」自ら渡してくださったことが示されているからです。

先週の主日に続いて、イエス様は今日も昔の掟について話されました。今日イエス様が取り上げられた掟は「目には目を、歯には歯を」、そして「隣人を愛し、敵を憎め」という掟でした。これは、所謂「交換正義」に基づいた掟で、それは「自分が受けた被害の分通りに相手に返すべきである」という意味の掟です。世の中の常識の観点から見たらこれこそ正義であると共感するはずです。しかし、イエス様は違う観点からこの掟について教えられました。それは今日の福音の最後に書いてある「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」という観点なのです。イエス様はその観点から「悪人にどう対応したらいいのか。」について教えられましたが、それはとても実行しづらいことのように聞こえます。要するにイエス様は、「打とうとされたら反対側も向け、下着だけでなく上着まで取らせ、一ミリオン強いられたら二倍の距離を一緒に行け、求められたら拒まず喜べ。」と教えられ、更に「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と言われました。でも、果たしてそんなことができるでしょうか。むしろ、先程の「交換正義」の方が分かりやすい常識に思えますが、イエス様はそれと全く違うことを教えられたのです。それはどういうわけでしょうか。

事実イエス様は、わたしたちがその簡単な常識に従って世に属する者となることではなく、「神様の子となる」ことを望まれたのです。言い換えれば、イエス様は神様の子供となるための生き方、また、その子供に相応しい生き方について、わたしたちに教えてくださったわけです。実に、「交換正義」というものは、罪や犯罪を防げる効果があり、それは旧約のイスラエルの民にとっては、共同体を守るためにも必要なものだったのです。しかし、イエス様が教えてくださったのは、完全な慈しみと愛そのものである神様の子供たちの群れのためであり、その群れに迎え入れられるための生き方なのです。そこで、昔の契約の交換正義に基づいた掟と、イエス様の新たな教えとは、全く違う御言葉だと言えるのでしょう。

その新しい生き方を、イエス様は御言葉だけでではなく、ご自分の最後の晩さんと十字架上で自ら示し、また、証ししてくださいました。その最後の晩さんと十字架の上で、イエス様は御父である神様の小羊として自らいのちをささげ、神様の完全な慈しみの愛によるゆるしと救いを全うされたのです。そして、そのゆるしと救いの御業の記念を教会に任せ、今も変わることなく神様の慈しみと愛を示しておられるわけです。その教会の人たち、すなわち、わたしたちは「完全であられる天の父」の子供として呼び集められ、祭壇の上で新たにご自分をささげられるイエス様の御体と御血の神秘に与っています。それは、だれもが願ったこともない「わたしたちのために自らを渡し、また、わたしたちと多くの人のために自らの血を流す」愛の神秘でしょう。ですから、わたしたちも神様の子供として、より完全に愛し合うべきです。

今日使徒パウロは、教会の人たちを「神様の神殿」と言いました。神殿とは愛の神様がおられるところでしょう。ここで、神殿であるわたしたちの役目をよく示している「聖フランシスコの祈り」を思い起こしましょう。「憎しみに憎しみでなく愛を、諍いに諍いでなくゆるしを、分裂に分裂でなく一致を、疑惑に疑惑でなく信仰を、誤りに誤りでなく真理を、絶望に絶望でなく希望を、悲しみに悲しみでなく喜びを、闇に闇でなく光をもたらすこと、また、慰められるよりも慰めることを、理解されるよりも理解することを、愛されるよりも愛することを望むこと」こそが、わたしたちの役目なのです。それを果たせば果たすほど、わたしたちはより完全な神様の子供、神様の神殿となれるでしょう。それを願いながら、今日もパンとぶどう酒と共にわたしたちを愛の捧げものとして捧げましょう。