今日は十字架上の死と栄光の復活を通して、罪と死に打ち勝たれたイエス様が約束してくださった「聖霊の降臨」を記念する祭日です。神様の満ち溢れる愛によって造られた人間は、その神様の愛に背いて罪を犯し、その結果、人間は神様から離れ去ることになりました。つまり、それは神様が人間に与えてくださった「神様ご自身のいのちを失った」ことを表わしていて、それによって、人間は自分の罪のために死を迎えるしかない存在となったわけです。

しかし、神様はその憐れな人間のために、独り子イエス様の命を惜しみなく捧げてくださいました。そのイエス様の死を通して、神様は罪と死の影にある人間のために身代金を払われ、イエス様の復活を通して、人間を苦しめる罪と死を滅ぼされました。それだけではなく、神様はイエス様の昇天を通して、御自分から離れ去らねばならなかった人間を、再びご自分のもとに導かれたわけです。そして、聖霊降臨を通して、神様は再び人間をご自分の命に与らせて下さり、更に、最も豊かな恵みを注いでくださったのです。その恵みとは、わたしたちが神様を知り、また、神様を信じるようにしてくれるもの、そして、神様との絆を強めてくれるものであります。神様はその恵みを、聖霊降臨によって生まれた教会に委ねられ、世の終わりまで、ご自分を信じるすべての人がその恵みの泉である教会の中で、救いと命の水を得るようにしてくださったわけです。

その恵みの中で最も貴重なのは、言うまでもなく七つの秘跡でしょう。実に、わたしたちは教会の洗礼と堅信の秘跡を通して、神様の命に与る神様の子供となる恵みを受けました。そして、神様の新しい過越し祭のための小羊として、十字架上でご自分の命をささげられたイエス様の最後の晩さんを記念するこのミサに与り、そのイエス様の御体をいただけるようになったのです。また、あらゆる罪や過ちを犯しがちなわたしたちが、赦しの秘跡を通して清められ、イエス様の御体を相応しい心でいただけるようにしてくださいます。それだけでなく、色々な病気で苦しむ人のためには病者の秘跡を設けられ、わたしたちの弱まった体と心、魂を力づけてくださいます。また、婚姻の秘跡を通して夫婦の絆を祝福して、その家庭を神様ご自分のお住まいとして受け入れてくださいます。そして、ご自分の独り子の永遠の祭司職に与る人を選び、彼らを通して、教会の秘跡と恵みとが絶えず施されるようにしてくださいます。

このように聖霊は教会を生み出し、その教会を通して働かれますが、今日の第一朗読が語っているように、実は教会の始まりは「福音宣布」、つまり、イエス様のことを証しすることでした。今日、聖霊は弟子たちに降り、彼らを外へと導かれました。そして、五旬祭を祝うために世界各地から集まってきた言葉の違う多くの人たちに、色々な国や地域の言葉でイエス様の死と復活を語り、イエス様こそが真の救い主であることを宣べ伝えるようにされたのです。そこで、彼らはもはや学ぶ人、つまり、「弟子」でなく、遣わされる人、すなわち、「使徒」となったわけです。そして、使徒となった彼らは、各地で教会を建ててイエス様の福音を宣べ伝え、共に祈り、ミサをささげ、神様と人々への愛の務めを多くの人々に広めました。

その最初の教会に倣って今の時代の教会も、祈りと秘跡とミサとを通して自らを清め、世の罪と悪の陰にある人々を神様のもとに呼び集めます。また、神様の御言葉とイエス様の福音を学びながら、それを証しし、あらゆる時代の預言者として、すべての人に神様の御心に適う生き方と歩むべき道を示します。そして、神様の慈しみと愛をもって、あらゆる形で教会の中で、或いは、世の中で奉仕します。こうして、教会はキリストの三つの職務である「司祭職、預言者職、王職」に与るのです。特に、横浜教区では、「祈る力を育てる部門、信仰を伝える力を育てる部門、愛を証しする力を育てる部門」を設け、それぞれの部門をもって教会のありさまを示しつつ、聖霊の力を願いながら活動しているわけです。

事実、聖霊は教会の誕生の時から共におられ、七つの賜物と言われる恵みを注ぎ、主が与えてくださる務めを通して、わたしたちを神様の働きに与らせてくださいます。それは、今日の第二朗読にも書いてありますが、わたしたちがどんな立場の人であっても、キリスト・イエス様を頭とする一つの体となるためです。ですから、聖霊によらないと賜物は無駄なものとなり、主の務めは形式的な仕事となり、神様の働きでなく、人間同士の活動となってしまいます。そうなると、教会は主の御体でなく、一部の人たちの私物となってしまいます。

さて、今日の福音で、復活されたイエス様は弟子たちに、「あなたがたに平和があるように。」と言われ、最後には「赦し」についておっしゃいました。その際、イエス様はご自分の手とわき腹とをお見せになりました。それは、ご自身が罪の赦しのためのいけにえとなったように、教会もそうなるべきだということを示すためだったに違いありません。互いに愛し合うこと、赦し合うことによって、教会は平和のしるしとなります。これからも、聖霊に導かれて、交わりとしての教会を目指し、共に祈り、共に働き、共に歩む共同体となってまいりましょう。