最近、韓国教会の迫害時代の資料を少し調べる機会がありました。そして、昔、私たちの信仰の先祖たちがどれほど苦しみながら、様々な迫害や虐げ、また、棄教の誘惑と戦ったのかについて、改めて考えてみるようになりました。日本教会も同様でしたが、世の中の不純な思いや風潮に染まっている人たちにとって、イエス様を通して示された神様の愛と慈しみは、耐え難い邪魔なものだったのでしょう。そのため、敵対視された信仰の先祖たちは、そういった世の中と戦って大事な命を失ったわけです。でも、先祖たちがそのように戦うことができたのは、神様への信仰と希望、愛を抱いていたからでしょう。そして、イエス様が教えてくださった愛の道の正しさを強く信じていたからに違いありません。その暗闇の時代が終わり、私たちは今、明るい時代の中で信仰生活を送っていますが、それは何とありがたいことでしょうか。

今日の福音で、イエス様は福音宣教のためにご自分の使徒たちを遣わしながら、彼らがどういう状況と向き合うことになるかについて言及されました。それは、彼らの命が脅かされ、実際に命を失うことになるかもしれないということでした。そういう話を聞いた使徒たちはどれほど大きな不安と心配、また、恐怖に包まれたでしょうか。しかし、イエス様は「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。」という言葉で使徒たちを励ましながら、「体だけでなく、魂まで地獄で滅ぼすことができる方、つまり、神様」を恐れるようにとおっしゃいました。また、市場で売られている雀さえも神様が許さないと、地に落ちることはないと言われ、更に、神様は使徒たちの髪の毛までも一本残らず数えておられるとも言われました。そして最後に、「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」とおっしゃいました。これは何と温かくて力のある言葉でしょうか。これは、言い換えれば、イエス様ご自身が使徒たちの仲間となってくださるという、約束の御言葉に違いありません。彼らは自分たちがイエス様の仲間としている限り、イエス様も自分たちの仲間となってくださると確信できたはずです。

今日の第一朗読で、預言者エレミヤは多くの人たちの非難と脅しを受けながら、しかも、味方だった人たちからも裏切られながらも、神様への信仰と希望、愛の紐を手放しませんでした。彼は、人々のそういった計略や企みに屈服して神様を裏切ることより、自分のいのちを失っても、神様に従うことを選んだのでしょう。エレミヤは、神様が自分を選んだのは、罪と死の暗闇でさ迷っているすべての民に神様の道を示し、その民を神様のもとに立ち返らせるためだったことを知っていたのです。エレミヤは、その慈しみ深い神様が、自ら選んだ自分を裏切ることはあり得ないと強く信じていたわけです。エレミヤは、その神様への信仰と希望と愛のために、世の中の権力者たちから酷く迫害されましたが、神様は最後の最後まで彼の仲間となってくださり、異邦人の国に引っ張って行かれた後も、彼の命を守ってくださいました。そして、地上で彼の仲間となってくださった神様だからこそ、天上でも彼と共にいてくださるはずです。

今日の福音を通して、イエス様は私たちにも「ご自分の仲間になりなさい。」と声をかけておられます。私たちがイエス様の仲間になるとはどういうことでしょうか。それは、言うまでもなく、イエス様の福音と愛の生き方を証しすることなのです。今日の第二朗読で、使徒パウロは、一人の人、つまり、アダムによって罪が世に入り、その罪によって死が入り込んで、すべての人がその死の支配下で生きている、と言いました。そして、もう一人の人、つまり、イエス様によって、その罪と死の支配は終わり、神様の恵みとイエス様の恵みの賜物が、多くの人に豊かに注がれる、とも言いました。私たちが証しするのはまさにこれでしょう。イエス様の愛の十字架によって、慈しみ深い神様の救いが示されたこと、また、だれでも、そのイエス様の愛の道に沿って生きて行けば、その救いに与れるようになる、ということです。

その証しをするのは、先ず足下、つまり、この教会から始めなければなりません。イエス様は世の暗闇の中で愛の福音を教えてくださり、私たちの信仰の先祖たちも酷い迫害の暗闇の中で、信仰を守り抜きました。今、私たちは明るい時代を過ごしていますが、本当に明るいでしょうか。実際、教会の中でさえイエス様の事について話すことができず、子供たちにそれをちゃんと教えようともせず、他人の目を意識して福音を言うことや祈ることを恥ずかしく感じてためらうなら、私たちはもう暗闇に覆われているのでしょう。また、他人を責めたり、戒めたり、強いたりしたら、私たちはもはやイエス様の仲間ではなく、暗闇の仲間となってしまいます。私たちにはそういった生き方はふさわしくありません。これからも、神様とイエス様の恵みの賜物を分かち合い、愛と慈しみ、理解と平和が満ち溢れる共同体となるため、努めて参りましょう。