今日の福音は、メシアとしての公生活の初期、イエス様のみ心を語ることから始まります。それは一言でまとめると、「憐れみのみ心」だったと言えます。まさに今日の福音にも書いてありますが、イエス様は弟子たちと共に、多くの町や村で神様の国の福音を教えておられましたが、そこで出会った群衆の姿から、深い憐れみを覚えておられたようです。それは彼らが、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている姿だったからでしょう。そこで、イエス様は弟子たちに、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」と言われたわけです。

それから、イエス様は十二人の弟子たちに汚れた霊に対する権能を授けられましたが、それは、彼らが汚れた霊を追い出し、また、あらゆる病気や患いをいやすためだったのです。その後、イエス様はその十二人を派遣するにあたって、彼らが異邦人の道に行くことと、サマリア人の町に入ることを許さず、ただ、イスラエルの家の失われた羊のところへ彼らを遣わされました。そして、「『天の国は近づいた』と宣べ伝え、病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。」と命じられ、さらに、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」とも言われたのです。きっと、弟子たちはイスラエルの家の失われた羊のところへ遣わされ、イエス様の命令通りに働いたに違いないでしょう。

ところで、今日の福音を黙想しながら、ずっと気になっていたことが一つありました。それは、飼い主のいない羊のような群衆の姿を見て深く憐れまれたイエス様が、弟子たちに「収穫の働き手を送ってくださるよう、収穫の主に願いなさい。」と言われた箇所です。どうして、イエス様は、羊の群れを世話するための働き手でなく、収穫のための働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさいと言われたのでしょうか。よく考えてみると、飼い主のいない羊たちのためには、羊飼いの方がより必要なはずなのに、なぜ、イエス様は羊飼いではなく、畑の収穫をする働き手を願うようにと言われたのでしょうか。

ヨハネによる福音の中で、イエス様はかつて、「わたしは真の羊の門であり、羊飼いである。」と、はっきりとご自身を示されました。それは、イエス様ご自身だけが真の羊飼いであるということでしょう。それを考えたら、世の中で弱り果て、打ちひしがれてさ迷っているすべての羊にとって、イエス様だけが真の飼い主であり、羊飼いであらねばならないことが分かります。そこで、イエス様は弟子たちには「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」と言われたのではという気がします。そして、イエス様は、弟子たちに異邦人の道に行ってはならない、サマリア人の町に入ってはならないと指示され、ただ、イスラエルの家の羊のところにだけ派遣されました。これは一体どういうわけでしょうか。これはおそらく、弟子たちがご自分の指示通りに従うか否かを試すためだったと思われます。イエス様からその大きな権能を授かった弟子たちは、知らないうちに高慢な心に捕らわれ、イエス様でなく、自分たちが中心となろうとする誘惑に陥ってしまうかもしれません。そこで先ず、イスラエルの家の羊のところへ弟子たちを送り、その羊たちをご自分のもとに集めるようにと、命じられたわけです。それとは別に、他の理由も考えられるでしょう。それは、「羊飼い」と「収穫の働き手」という仕事の違いです。羊飼いは自分の豊かな知識、経験に基づいて、すべての羊を導きますが、収穫の働き手は、ただ、決まっていることをやるだけです。イエス様に呼ばれたばかりの弟子たちは、まず、イエス様の指示通りに行う人となるのが、何よりも大切だったからに違いありません。

こうして、イエス様はご自身だけが羊の飼い主であり、羊飼いであることと、弟子たちはそのイエス様に従って働く人であることを明らかにされました。しかし、そのように働くことによって、彼らは派遣されて働く、使徒としての道を学び始めることができたに違いありません。その使徒としての道とは、すべての人をイエス様の十字架のもとに導き集め、イエス様の御体と御血の食卓に与らせることでしょう。その十字架と、御体と御血の食卓を通して、イエス様はご自分を信じるすべての人を罪と死から解放し、また、神様と和解させてくださいました。それは、ご自分に従うすべての人を神様の祭司の王国の、聖なる国民とするためだったでしょう。イエス様はその務めを憐れみのみ心を持って果たし、十字架に至るまでその愛のみ心をもってその務めを全うされました。確かに、イエス様のすべての務めは憐れみと愛のみ心から始まったと言っても過言ではありません。今日、イエス様はご自分の弟子たちを派遣する際に、そのみ心を表されましたが、それは、弟子たちもそのみ心を学ぶことを望み、同じ心で働くことを望まれたからでしょう。それは、わたしたちに対しても同様です。これからのわたしたちのあらゆる働きが、イエス様のみ心に基づいたものとなるよう、努めてまいりましょう。