霊降臨によって誕生した教会は、神様が三位一体の方であることを知り、信じるようになりました。そして、その神秘まで示し、ご自身を信じるすべての人をその神秘に与らせてくださった神様に、感謝と賛美をささげるため、聖霊降臨の次の主日に「三位一体の祭日」を祝うことにしたわけです。また、その感謝すべき恵みがイエス様の過越し祭、つまり、「最後の晩さん」から始まったことを悟り、改めてその晩さんを祝うことにしました。それがまさに、今日の「キリストの聖体の祭日」なのです。イエス様はご自分の御体と御血を過越し祭の捧げ物とし、実際に十字架上でご自分の命をささげて、神様と人間との新しい契約を結んでくださいました。そして、復活と昇天を通して、その契約の掟、すなわち、「互いに愛し合いなさい。」という掟を守り、実践する人を三位一体の神様のもとに集め、永遠の命に与らせてくださったわけです。これこそが、イエス様の過越し祭であり、わたしたちの過越し祭でもあります。

今日の第一朗読は申命記の一部ですが、そもそも申命記とは、エジプトでの初めての過越し祭から四十年の間、神様が頑ななイスラエルをどれほど愛し、どのように養い、守ってくださったのかをモーセの口を通して語った旧約聖書の一書です。特に今日、モーセは「炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野の」酷い環境の中で飢え渇いたイスラエルの為に、神様が何をなさったのかを思い起こさせています。それは、「硬い岩から水を湧き出させ、先祖が味わったことのないマナを食べさせてくださった」ことでした。こうして、神様は絶えずご自分に背いた民を赦し、養い、守ってくださいましたが、それは「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きることを」知らせる為だったのです。しかし、それほど大きく恵まれたにもかかわらず、イスラエルは約束の地に入ってからも、繰り返し神様に背き、罪の道を歩み続けました。そこで、神様はもう一度、ご自分に忠実に従う民を呼び集める為に、ご自分の独り子であるイエス様をこの世に遣わされたわけです。

イエス様はメシアとしての公生活を始めるにあたり、先ず、荒れ野に行き、そこで四十日を過ごされました。その時、イエス様は悪魔から色々な誘惑を受けられましたが、それをことごとく退け、ご自身が立てられる神様の新しい民に、神様の御言葉によって生きる道を示してくださいました。そして、その公生活の最後に、弟子たちと共に旧約の過越し祭を行いましたが、それがイエス様の最後の晩さんだったのです。その晩さんでイエス様はパンとぶどう酒をご自分の御体と御血とし、ご自身が罪の赦しによる新しい過越し祭のための捧げ物であることを、はっきりと示されました。そして翌日、十字架上でその新しい過越し祭と新しい契約を完成されたわけです。その十字架の上で、イエス様はご自分の脇腹から水と血を流されましたが、それこそが教会の誕生を現す「しるし」となったわけです。そして、イエス様はその新しい過越し祭と、それによって結ばれる新しい契約を教会に任せられました。その新しい過越し祭とは「罪を過ぎ越して赦しへ、死を過ぎ越して命へ渡る」もので、それによって教会は神様の新しい民となりました。そして、それを記念するようにと命じられたイエス様の言葉に従って、今私たちはこのミサを捧げているわけです。このミサの中でイエス様はもう一度、パンとぶどう酒の形でご自分の御体と御血を捧げて、それをいただく私たちを神様の命にも与れるようにしてくださるのです。

今日の第二朗読で使徒パウロは、イエス様が教会に任せられた杯とパンについて言いながら、私たちがそのパンと杯を通して、キリストの体と血に与ると強く訴えました。パウロは、みんなが別々のパンと杯でなく、ただ一つのキリストのパンと杯に与っているのを明らかにしたのです。それは、そのパンと杯を通して、みんながキリストと一つとなり、みんながキリストを頭とするキリストの体であるということでしょう。だからこそ、体全体が一つ一つの部分の為に働くように、教会のすべての人が一人一人の為に働き、体の一つ一つの部分が体全体の為に務めるように、教会の一人一人も教会のすべての人の為に務めるべきです。それこそが、すべてのものの源でありながら、そのすべてのもののために救いの御業を成し遂げられた神様の慈しみと愛を証しする教会、キリストの一つのパンと一つの杯に与る教会の真の姿なのです。

さて、旧約のイスラエルは荒れ野でマナを食べ、岩から湧き出た水を飲みました。その経験を詩編の著者は今日の入祭唱で、「主はよい麦を人々に与え、岩の蜜で養ってくださる。」と歌いました。しかし、私たちには最も素晴らしい食べ物と飲み物である「キリストの御体と御血」という賜物を授かっています。でも、その御体と御血をただ食べ、ただ飲むことだけなら、それは賜物をいただいたとは言えません。愛と慈しみを持って、心と知恵と力を合わせ、共に働くことによって、キリストの御体と御血は真の賜物となり、私たちはその真の味を味わえるのです。キリストの御体と御血に染み込んでいる神様の慈しみと愛を深く黙想しながら、私たちが慈しみと愛で満ち溢れる共同体となれるよう、心を合わせてお祈り致しましょう。