普段ミサが始まると、司祭と奉仕者は十字架を先頭にして、祭壇の前まで行列します。もっと大きな祭日の場合には、その十字架の前に香ばしい香を手にした侍者が先頭に立ちます。この香は、十字架に釘付けられたイエス様こそが、神様の聖なる御子、すなわち、栄光に覆われておられる神様ご自身であることを表しています。そして、わたしたち皆は、イエス様の十字架に従う人であることをも表しているのです。こうして、ミサをささげる度、わたしたちは自分がイエス様に従う人で、世の中に対しては背を向ける人であることを告白するのです。

今日の福音でイエス様は、御自分に従う人としてふさわしい人とは誰なのかについて教えてくださいました。イエス様の教えによると、ふさわしい人とは、親や子供よりイエス様を愛する人であり、自分の十字架を担ってイエス様に従う人であり、イエス様のために命を失う人であるのが分かります。でも、この教えを文字通りに聞いたら、とても酷くて受け止めにくい教えのように聞こえるはずです。しかし、この教えは、愛によって築かれている家族の絆を無視したり、また、軽んじたりするための教えではありません。これは、わたしたち信仰のある人たちが、世の中の様々な価値より、先ず、何を優先的に考え、また、選ぶべきなのかについての教えなのです。それは、言うまでもなく神様のことであり、イエス様はそんな信仰のある人たちには、真の永遠の命が与えられる、とおっしゃったわけです。

実に、イエス様ご自身も、神様の慈しみと憐れみによる救いの御業を全うするために人となり、十字架上の死に至るまで御父である神様に従われました。その十字架の上で、イエス様はご自分に従うすべての人を救いの泉、つまり、洗礼の泉へと導いてくださいました。その洗礼の泉で、神様とイエス様への信仰を告白した人たちは、イエス様と共に世の中の罪に対して死に、また、清められて、キリスト・イエス様と共に新しい永遠の命に生きる人となるのです。そして、その人たちのために、イエス様はご自分の御体と御血を新しい永遠の命のしるしとして教会に委ね、教会がミサを通してその神秘を表わし、また、分かち合うようにとされました。こうして、イエス様の十字架は世の罪に対する死と清めのしるし、また、永遠の命への道のしるしとなったわけです。そのイエス様の十字架に従って世の罪に対して死に、イエス様の御体と御血を通してイエス様の命に与る人たち、それはまさにわたしたちのことでしょう。

再び今日の福音に戻ってみると、イエス様は、「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しいものを正しい者として受け入れる人は、正しいものと同じ報いを受ける。」とおっしゃいました。そして、ご自分の弟子だという理由で、彼らの一人に、「冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」とも言われました。これは、イエス様がご自分の弟子たちを遣わすときの御言葉ですが、その彼らはそんなイエス様のみ言葉に従う人たちだったのでしょう。イエス様がおっしゃった通り、例えば、預言者を受け入れる人は、その預言者と同じ報いを受け、正しい人を受け入れる人は、その正しい人と同じ報いを受けることになり、ご自分の弟子たちに水一杯を飲ませる人には、それ以上の報いが与えられるとしたら、果たして、イエス様に従う人にはどんな報いが授けられるでしょうか。それはイエス様のいのち、すなわち、神様ご自身のいのちでしょう。

その報いの宴を表しているのが、このミサであり、この祭壇なのです。そして、今日もわたしたちは、わたしたちを導いてくださる十字架上のイエス様を仰ぎ見ながら、このミサを始めました。それはただ、わたしたちの体を祭壇に向けるようにするだけでなく、わたしたちの背をあらゆる罪に向けるようにするためでしょう。イエス様はそのために、今日もわたしたちの先頭に立って、わたしたちの飼い主となり、羊飼いとして、わたしたちを清めの泉、永遠の命の食卓に導いてくださるのです。それを考えたら、わたしたちがこのミサ聖祭を大事にするのは当たり前ですが、それは単に「お客さん」としてではありません。というのは、その食卓に与るためには、ある必要な条件があるということです。その条件とは何でしょうか。

それは言うまでもなく、イエス様の愛の生き方に沿って生きることでしょう。イエス様が教えてくださった通り、互いに愛し合いながら、子供たちも大人たちも、神様のただ一つの家族であることを認め、みんなが共に働くことを学び、また、実際にそのように働くことが大切なことだと思います。わたしたちの信仰の先祖、日本二十六聖人もそうだったでしょう。小さい子供たちも大人たちと共に毅然として十字架に付けられ、大人たちも子供のような心でその十字架を喜んで受け止めました。そのように、わたしたちも日々与えられるイエス様の十字架を素直に受け止めて、必要な力を願いながら、それを担って歩まねばなりません。これからも、わたしたちがみんな一つとなって、この信仰の道を歩むことができるよう、お祈りいたします。