今日の福音は、わたしたちがよく知っている「種蒔く人の例え話」です。この例え話については、イエス様ご自身が親切に説明してくださって、それ以上の解説は必要ではないと思います。そこで今日は、この例え話を聞かせてくださったときの風景を心の中で描きながら、イエス様がわたしたちに何を望んでおられるのかについて、少し考えてみたいと思います。

信者の皆さんはどう思われるか分かりませんが、司祭としてこの説教台に立つと、いつも緊張感を覚えております。韓国でも説教台に立つことは怖かったですが、日本に居る今も、その気持ちは変わっていません。それは、ただ、日本語という外国語で説教しなければならないという緊張感だけではありません。(その気持ちをどういう風に言えばいいでしょうか。)とにかく、一言でまとめたら、「今日のわたしの説教がどれほど信者の皆さんに伝わるか。どれほど共感していただけるか。」とか、或いは、「ほぼ一週間、頑張ってこれだけ説教を準備したけど、果たして、信者の皆さんは今日の福音からどれほど恵みを受け、それを生活の中でどういう風に生かしていけるだろうか。」という気持ちだと言えます。そういう気持ちの中で、今日もこの説教台に立っております。

今日の福音は、イエス様が湖のほとりに座っておられる場面から始まります。とても静かな場面が頭に浮かびますが、本当に静かだったでしょうか。多分、そうではなかったと思います。というのは、その時の風景は、例えばイエス様が初めてペトロとその仲間たちに出会った時のように、夜通し漁をした多くの漁師たちが、それぞれ捕れた魚を運んだり、舟を掃除したりしながら、にぎわっている状況だったかもしれません。きっと、魚の売り買いをしている人も多くいたに違いありません。そんなにぎやかな雰囲気の中で、イエス様はそっといらっしゃって、湖のほとりに座っておられましたが、そのイエス様を見分けた大勢の群衆が、そのそばに集まって来たわけです。そこで、イエス様は舟に乗って腰を下ろし、岸辺にいる群衆に向かって「種蒔く人の例え話」を聞かせてくださいました。ここで、一つの小さな疑問が頭によぎります。それは、「なぜ、その大勢の群衆は、そのにぎやかでやかましい港に背を向けて、イエス様のところに足を運んだのか。」ということです。なぜだったでしょうか。

その群衆のことを考えてみたら、彼らはそれぞれ様々な理由でイエス様のところに集まって来たと思われます。その中には、例えば、驚くほどの奇跡を直接見たかった人もいたはずですし、色々な病気をいやしてもらいたかった人たちもいたかもしれません。そのほかにも、イエス様を、まるで、占い師だと思って、自分の問題を解決するために、イエス様から適切なヒントを得ようとしていた人もいたかもしれません。或いは、イエス様を自分たちのグループの仲間としようとしていた人たち、または、イエス様の言葉尻を捕らえて、イエス様を訴えようとしていた人たちもいたとも思われます。そういったさまざまな理由や目的を持っている人たちに囲まれたイエス様は、舟に乗りそこで教えられたわけです。その教えがまさに、「種蒔く人の例え話」であり、その例え話には「道端のような人、石だらけの土の少ない所のような人、茨の間にいるような人、そして、良い土地のような人」が登場したのです。

どうでしょうか。きっと、その例え話を聞いた群衆のほとんどは失望のあまり、イエス様から離れ去ったに違いないと思います。なぜなら、今日のイエス様の例え話は、どんな奇跡も起こさなかったし、どんな癒しの恵みや占いもなかったでしょう。しかも、世の中の力を求める人たちや、イエス様を捕まえようとしていた人たちにとって、イエス様の今日の言葉は理解できない謎のようなものだったはずです。そういった人たちは、神様の御国の言葉を聞いてもそれを悟らず、その御言葉より世の中の色々な甘い声に耳を傾けて、結局、その御言葉を奪われてしまうのです。また、その御言葉のために艱難や迫害に巻き込まれると、それに躓いてしまい、或いは、世の思い煩いや富の誘惑に負けて、何の実も結べなくなるわけです。イエス様は、すでに、ご自分のところに集まってきた人たちを見極めておられたに違いありません。

しかし、イエス様は諦められませんでした。なぜなら、ご自分の御言葉に耳を傾けて悟り、百倍、六十倍、三十倍の実を結べる人たちを信じておられたからです。その人たちは、ひたすら神様の国を熱く待ち望む人たち、その国のために働く人たち、その国の生き方である愛の生き方を実践する人たちでしょう。その人たちは、その御国への道を探している人たちを導き、喜んで「互いに愛し合いながら」その道を共に歩む人たちなのです。そのイエス様の姿を思い起こしながら、今日も説教台に立っております。これからも、わたしたちはイエス様のみ言葉を熱い信仰を持って聞き、悟り、また、生活の中で生かしていけばと思いつつ、このミサの中で、神様がわたしたちの心を開き、もっと熱く燃え上がらせてくださるよう、お祈り致します。