先週の主日に続いて、今日もイエス様はいろいろな例え話を聞かせてくださいました。今日の例え話は全部で三つでしたが、どれも「天の国」について語っています。しかし、よく見ると、それぞれのメッセージが少しずつ違う気がします。勿論、イエス様が本当は違うということを示そうとして、これらの例え話を言われたのか分かりませんが、多分、イエス様はこの三つの例え話を通して、それに耳を傾けていた様々な立場の多くの人たちを、「天の国の神秘」へと丁寧に導こうとされたと思います。

先ずは「毒麦の例え話」です。わたしはこの話を黙想しながら、その緑豊かな麦畑を想像してみました。美しい風景が目に浮かびます。しかし、そこに悪魔が蒔いた毒麦も育っています。その毒麦は伸びれば伸びるほど、どんどんその姿をはっきりと見せます。普通の麦より背が高く、葉っぱも強く、まるで、良い麦を飲み込もうとするかのような勢いで育っています。このままだと、麦畑は毒麦だらけになり、結局、僅かな実を収めることしか出来なくなるかもしれません。そこで、僕たちは畑の主人に、自分たちがその毒麦を抜き集めると言いました。しかし、主人は収穫の時まで待ち、その時、良い麦と毒麦とをしっかりと分けて、良い麦は倉に入れ、毒麦は焼くように、刈り取る者に言いつけると言いながら、僕たちを止めたわけです。

考えてみたら、先ほど言ったように、主人はその年の収穫を諦めるしかない状況となるかもしれません。それを思いながら、毎日、麦畑を見つめなければならない主人の心は、どれほど苦しかったでしょうか。でも、そうするしかないと思いながらも、主人は耐えます。なぜなら、そういった酷い環境を乗り越えた麦こそが健やかなものとなるはずだし、それこそが主人の心に適うものだからです。それほど、主人は自分が蒔いた種の生命力を信じていて、僕たちがその麦の一本さえ抜いてしまうことが心配だったのでしょう。

その「種の生命力」については、次の二つの例え話が語ってくれます。それらの例え話にはそれぞれ、「からし種とパン種」が用いられています。先ず、からし種は蒔かれるときには、世の中のどんな種より小さいが、成長したらどの野菜より大きくなり、空の鳥がそこに巣を作るほどの木となります。そして、僅かなパン種でさえ三サトンの粉を膨らませます。

イエス様はこの三つの例え話を通して、目に見えない天の国について教えてくださいました。その国は、今は見えないですが、成長しているのは確かです。そして、いつか必ずその姿を見せるはずです。その国の主人である神様はご自分の満ち溢れる愛を持って、この世と人間を造られました。しかし、悪魔はその間に「罪と悪」という毒麦を蒔いてしまい、結局、神様の愛と、悪魔の罪と悪は、一緒にこの世の中で育っている状況となったのです。そこで、神様はイエス様を通して、改めてご自分の完全な愛を世の中に蒔いてくださいました。まだ悪魔の罪と悪が力を振るっていますが、神様はただ耐えながら、ご自分の国に相応しい実を収める日まで忍耐強く待っておられるわけです。それは、ご自身が蒔いた種を信じておられるからでしょう。

神様がイエス様の十字架の死を通して蒔かれたご自分の完全な愛という種、それはまさにわたしたちのことでしょう。神様は私たちを信じておられ、私たちがどんなに酷くて苦しい状況の中でも力強く育つことを望まれます。そのために、神様は私たちに聖霊を注ぎ、その聖霊の力に私たちが支えられながら、愛の実を結べるようにしてくださるのです。ですから、私たちは常に聖霊に導かれ、また、支えられて生きていくべきです。その聖霊とは愛の霊であり、神様の天の国の倉には、愛の実を結ぶ人だけが納められるのです。はたして、イエス様の十字架を通して示された愛とは違う実を結ぶ人が、神様の国に入ることはあり得るでしょうか。

ここに、私たちが警戒しなければならない大事なことがあります。それは、神様への信仰と出会い、隣人への愛を装った偽りの毒麦でしょう。実に、教会の中にもその毒麦はあります。力を振るっています。皮肉にも、その毒麦に一番弱い人とは、アイロニカル(残念)ですが、「熱心な人、まじめな人、使命感が強い人、豊かな知識を持っている人たち」だと言わざるを得ません。熱心さ、まじめさ、使命感、知識や経験、それらは毒麦ではないかもしれませんが、それによって信仰の仲間たちがふさがれて生き苦しくなり、成長できなくなり、団体や委員会から、奉仕から、また、教会から、離れることになってしまったら、果たしてその熱心さ、まじめさ、使命感、知識、経験は何のためにあるでしょうか。神様のみ心にはそういった人たちは適うわけがありません。神様は今も、わたしたちを慈しみの眼差しで見つめながら、忍耐しておられます。それは、私たちを裁く為でなく、救うためです。その神様のみ心に感謝しつつ、これからも互いに愛し合いながら、愛の実を結び続けられるよう、お祈りいたします。