今日は主の変容の祝日です。イエス様は今日、ペトロとヤコブ、そして、ヨハネを連れて高い山に登り、彼らの目の前で、ご自分の真の姿を見せてくださいました。その姿は、まさに、今日の第一朗読が語った神様ご自身の姿であり、今日の福音にはその様子がとても荘厳な言葉で記されています。福音によると、イエス様の顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなりました。そして、そこにモーセとエリヤが現れ、イエス様と語り合っていたわけです。その素晴らしい光景に我を失ったのでしょうか。ペトロは口をはさんで、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と言いました。他の福音では、その時彼は、自分が何を話しているのか分からなかった、という風に書いてあります。それほどペトロも、他の二人の弟子も大きな感動に包まれていたでしょう。ところが、ペトロのその話がまだ終わらないうちに、光り輝く雲が彼らを覆い、その中から、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」という声が聞こえてきました。そこで、弟子たちはひれ伏し、非常に恐れましたが、イエス様はそんな彼らに手を触れながら、「起きなさい。恐れることはない。」と、まるで、彼らを慰めるかのように声をかけてくださいました。そして、山を下りる時、イエス様は「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない。」と弟子たちに命じられました。

以上が今日の福音をまとめたものですが、今日の福音は、まさにイエス様の十字架上の死と復活を前もって示しています。イエス様は今日の出来事を通して、ご自分の受難と十字架上の死によって、信仰の道でつまずいてしまうかもしれない弟子たちに勇気を授け、彼らを力づけてくださったわけです。この出来事を通して、イエス様はご自分の弟子たちを十字架による恐怖や思い煩いから、復活の栄光と希望へ導いてくださったのです。その復活の栄光と希望の揺るぎない証人として現れたのが、モーセとエリヤでした。彼らはそれぞれ旧約、つまり、昔の古い契約を象徴し、また、神様の新しくて完全な救いの御業を予告した「預言を象徴する人物」でした。言い換えれば、この二人はイエス様による新しい契約と救いの証し人だったのです。

この二人の証人は、イエス様の十字架によって旧約が終わり、イエス様の復活によって新しい永遠の契約が始まることを示しています。イエス様はその新しい契約の証人として、ペトロとヤコブとヨハネを連れて、高い山に登られたのでしょう。そこで彼らは、イエス様の復活までこの出来事について誰にも言わないようにと、イエス様に命じられました。イエス様は彼らの証しによって、すべての人が慈しみ深い神様の新しい民に加えられるのを望まれたでしょう。そして、その新しい民一人一人が日々の十字架につまずくことのないように、今日のこの出来事を通して、力づけてくださったのです。わたしたちもその民に加わっているわけです。ですから、わたしたちは十字架の道を恐れず、その道から逃げず、勇気をもって歩むべきです。

その十字架の道とはどんな道でしょうか。それは言うまでもなく、愛の道でしょう。イエス様は今日、ご自分の弟子たちをその愛の道に導かれましたが、彼らの証言によってわたしたちも同じ愛の道を歩んでいるわけです。今日の第二朗読で、ペトロは自分たちが「聖なる山」でキリストの威光を目撃したと証ししました。その山については色々な説がありますが、彼は確かな山の名前を言わずに、ただ「聖なる山」だと語りました。なぜでしょうか。きっと、イエス様のおられる所なら、どんな所であれ聖なる山であり、イエス様と共に歩む道ならば、どんな道でも聖なる道であるという意味でしょう。当たり前の場所や道が聖なる場所や道となるには、何が必要でしょうか。それは、イエス様の愛です。愛によってでしか出来ません。わたしたちが聖なる人となり、わたしたちの道が聖なる道となり、また、わたしたちのいる場所が聖なる場所となるのを望むなら、「互いに愛し合いなさい。」という掟に従わねばなりません。

さて、今日の素晴らしい出来事を目にしたペトロは口をはさんで、イエス様を自分が建てた仮小屋に泊まらせようとしました。でも、それはイエス様の十字架と、その十字架による神様の愛に基づいた救いの計画を妨げることに過ぎません。教会のすべての事は、神様の愛で始まり、神様の愛で終わるべきです。そうでないなら、むしろ、やらない方がいいでしょう。いかに素晴らしい目的を持っていても、不平と不満、妬みと憎しみの中で行うのは、神様の愛を名乗った詐欺に過ぎません。教会の主導権を何らかの形で握ろうとするのは、神様を欺き、冒瀆し、その愛に背く罪となります。神様にすべての主導権を返しましょう。わたしたちは皆、神様が愛を持ってなさろうとしておられる事に、恐縮にも招かれた僕たちに過ぎません。神様は今日、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」と言われました。イエス様に従えと言う意味でしょう。果たして、わたしたちは何に従っているでしょうか。