今日、イエス様は弟子たちに二つの質問をなさいました。先ずは、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか。」という質問でした。「人の子」という言葉は、伝統的にメシア、すなわち、救い主を意味する言葉です。この人物は、長い年月の間、異邦人に支配されていたイスラエルを解放してくれると言われる存在でした。イスラエルは常に、神様がその人物を送ってくださることを願い求めていたわけです。そして、その人物のモデルとして挙げられたのが、まさに、エリヤとかエレミヤ、また、昔の預言者のようなイメージでした。そこで、イエス様の時代に、イエス様より先に認められたのは、洗礼者ヨハネでしたが、残念なことに、彼はヘロデによって殺されたのです。でも、多くの人たちには、洗礼者ヨハネのイメージが強く残っていたでしょう。それで、人々は洗礼者ヨハネがそのメシアだと言っていたわけです。そして、そんな世間の話を、イエス様の弟子たちも知っていたはずです。それで今日、イエス様から質問を受けた弟子たちは、その世間の話を伝えたのでしょう。とにかく、今日のイエス様の一つ目の質問は、「メシアである人の子に対する人々の考え」についての質問だと言えます。

その弟子たちの答えを聞いたイエス様は、弟子たちにもう一つのことを尋ねられました。それは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」という質問でした。この質問は前の質問とは少しニュアンスが違って、いわば、イエス様ご自身についての弟子たちの考えを尋ねる質問です。この質問を受けた弟子たちは、それぞれ考え込んだでしょう。「果たして、わたしたちが従っているこの方はどういう方なのか。わたしたちはこの方をどんな方だと思っているのか。」など。みんな色々考えているうちに、突然、ペトロが答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です。」と。その話を耳にしたほかの弟子たちは、みんなびっくりしたはずです。一体、この話はどういう意味でしょうか、また、誰から聞いた話でしょうか。

きっと、ペトロはイエス様に従い始めた時から、イエス様について考えてきたに違いありません。彼は、イエス様が大きな権能を持って悪霊を追い払われたり、数々の病気を癒されたりした姿を見ていたでしょう。ある日には、五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹させ、ある日には、嵐を叱って自分たちの命を救ってくださいました。時には、律法学者やファリサイ派の人たちを恥ずかしめ、彼らの偽りの信仰や知識を露にされました。多分、すべての人の目には、イエス様のその姿が、とても力強いメシアの姿のように見えたはずです。そこで、群衆はイエス様を自分たちの王としようとしたこともあったほどです。しかし、イエス様はそれを拒まれたでしょう。その時、ペトロはいぶかしく思ったかもしれません。そして、イエス様のことを改めて考え直し始めたとも思われます。勿論、ペトロにとっても、イエス様のその知恵と力と権能は、メシアとしての資格を証しするように見えたはずです。でも、それが今日の彼の信仰告白の根拠のすべてだったでしょうか。そうではないと思います。彼は、イエス様の知恵と力と権能の基にある「神様の慈しみと愛と謙遜」を見つけたでしょう。貧しい人を憐れみ、弱い人を支え、虐げられる人の仲間となり、罪人を赦し、病んでいる人を癒してくださるイエス様の姿。それこそが、イエス様のメシアとしての資格であり、それを見つけたペトロは今日、他の弟子たちより先に、イエス様を「生ける神様の子である」と告白することができたのです。それを考えたら、彼の答えは、まさに、神様が自ら教えてくださったに違いありません。

ペトロのその告白を聞いたイエス様は彼を祝福し、彼の上にご自分の教会を立てると宣言されました。そして、彼には天の国のカギを授けられました。信仰においては、まだまだ完成していないペトロでしたが、それでもイエス様はそうなさいました。それは、今の時代の教会、その教会に属しているわたしたちに、当たり前のありさまを示すためだったでしょう。イエス様はご自身を「メシア、生ける神様の子である」と告白したペトロの上に、ご自分の教会を立てられました。ですから、わたしたちにはペトロの信仰の他、別の信仰があってはならないし、イエス様の教会と違う教会となってはいけません。また、教会と、教会の様々な奉仕や務めを、自分個人の私物としてはいけないのです。あらゆる形の力や知識、経歴よりも、ペトロが見つけたイエス様の慈しみと愛、また、謙遜が優先されるべきです。教会の人たちには、そのイエス様の姿を学びつつ、互いに愛し合い、赦し合い、支え合い、助け合うことが大事なことです。

さて、今日のイエス様の質問はフィリポ・カイサリアでのことでした。その地方は、ヘロデ王の息子フィリポスによって建てられ、ローマへの忠誠を表すためにカイサリアと名付けられたのです。そこで、彼はローマの様々な神々に祭儀を行い、民衆もそれに与ったわけです。今の時代、わたしたちのところにもカイサリアはあります。あらゆる形の豊かさでわたしたちを試し、誘惑する華々しい世の中と、それに傾きやすい教会。そのようなカイサリアで、イエス様はわたしたちに問いかけられます。「それでは、あなたはわたしを何者だと言うのか。」と。