今日の福音で、イエス様は一人の異邦人の女性を助けてくださいました。彼女は、悪霊にひどく苦しめられている娘のために、執拗にイエス様について来ながら願っていました。そこで、弟子たちはイエス様に、「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」と言ったわけです。弟子たちのこの言葉からみると、彼女はただついて来るだけでなく、大声で叫びながら願っていたのが分かります。でも、イエス様の反応は意外と冷静でした。イエス様は弟子たちの話に対して、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」とおっしゃったのです。こんな雰囲気だったら、もう諦めるしかないでしょう。

しかし、その異邦人の女性は負けませんでした。彼女はついに、イエス様の前にひれ伏して、「主よ、どうかお助けください。」と願ったのです。でも、イエス様はもう一度、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない。」という冷たい言葉で彼女の願いを拒まれました。それは、この異邦人の女性にとって無情な言葉であるばかりか、はずかしめる言葉でもあるでしょう。イエス様のこの言葉によると、「イスラエルは子供のような大事な存在」ですが、それに比べて、「異邦人は小犬のようなみすぼらしい存在」に過ぎないということでしょう。

でも、周りの多くのユダヤ人から、もうすでに小犬のように扱われてきたその女性にとって、イエス様のその言葉に、思いも掛けない衝撃を受けた様子はありません。むしろ、彼女は大胆にイエス様に答えました。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と。その答えをイエス様は待っておられたのでしょうか。イエス様はついに、「婦人よ。あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。」と言われました。きっと、彼女の答えを聞いておられたイエス様の顔には、温和で明るい微笑が浮かんだでしょう。そして、ちょうどその時、彼女の娘の病気は癒されたわけです。

今日の福音から、わたしは幾つかのことを分かち合いたいと思います。先ず、信仰の道についてです。信仰の道とは、イエス様に執拗に、間近について行く道です。遠く離れた後ろから、余裕満々に歩んではいけません。そのためには、自分がそれほど立派な信仰者ではないことを、認めなければなりません。絶え間なく自らの信仰を顧みながら、イエス様について歩み、その愛と慈しみ深い姿以外の物事については、気を遣わないようにすることが大事です。

つぎは、忍耐強く歩むことです。信仰の道とは、いつもイエス様の慈しみや愛、共同体の温かい関心と励ましの中で歩む道ではありません。時にはあきらめたくなる場合もあるし、時には様々な傷を受ける場合もあります。その時こそが、自分の信仰が試され、更に、その信仰をもっと強く成長させることができるチャンスです。今日の福音の女性を思い起こしましょう。彼女は弟子たちの拒否感、イエス様の冷たい言葉を聞きながらも、それを忍耐強く乗り越えました。そして、ついにイエス様に褒められ、願った恵みをいただくことができたのです。わたしたちも力強く、忍耐強く、この信仰の道を歩み続けましょう。

続いては謙遜です。今日イエス様は、異邦人の女性の信仰を褒められました。しかし、彼女は、「小犬」という冷ややかな言葉さえ耳にしなければなりませんでした。でも、彼女は自分をへりくだり、イエス様の前にひれ伏して憐れみと助けを願いました。イエス様は彼女の信仰をその謙遜な姿から見出されたのでしょう。謙遜な信仰者は幸いです。なぜなら、自らを言葉や行動、立派な奉仕や知識で公に現わさなくても、イエス様ご自身が認めてくださるからです。

最後に、若い世代のための心配りです。この若い世代という言葉は、年齢だけを意味する言葉ではありません。それを含めた上、新しい意見ややり方など、様々な意味を表します。今日の福音で、イエス様は「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」とおっしゃいました。「失われた」とは受け身でしょう。つまり、持ち主は失うつもりではなかったのに、外部的な原因によって失ってしまったという意味です。その外部的な原因とは、昔からの言い伝えややり方に拘っていた、悪名高いファリサイ派や律法学者たちのことでした。積み重なった色々な経験や知識がいつの間にか硬い石となり、多くの人たちがそれに躓いても、彼らは依然として頑ななままでした。彼らは、自分こそが神様の真の羊の群れだと言っていましたが、イエス様はむしろ異邦人の女性を助けて、彼女を神様の羊の群れに受け入れてくださったのでしょう。イエス様がその病んでいた女の子のために何をしてくださったのかを思い起こしましょう。多くの若者たち、新しい信者たちが様々な理由で教会から傷つき、異邦人のように扱われ、仕方なく世の中でさ迷っている現実です。わずかなパン屑を願っても、それさえも分かち合ってくれない頑ななわたしたちのせいです。若い世代に喜んで少しずつ席を譲るのも、信仰の先輩たちの美徳、美しい姿だと思います。しばらくの間黙想しましょう。