先週の主日の福音でわたしたちは、ぶどう園の主人の例え話を通して、絶え間なく新しい働き手を捜しておられる神様についての話を聴きました。そして、みんなが神様のお招きによって、神様のぶどう園である教会の中で働くようになったことについても考えてみました。その教会の生活を通して、わたしたちは神様、また、隣人との交わりに与り、それこそがわたしたちに与えられる賃金であることを、改めて考えてみることができたと思います。

さて、今日は別の例え話が福音として語られています。それは、二人の息子を持つある父親の例え話でした。彼は、自分の二人の息子に「ぶどう園へ行って働きなさい。」と言いましたが、その二人の反応と行動は全く違ったものでした。長男は父親の指示を断りましたが、後で考え直して、その指示に従いました。しかし、次男はその指示に従うかのように、「承知しました」と答えましたが、実際にはぶどう園へ行きませんでした。

今日の例え話の実際の内容はここまででしたが、その後、イエス様はその例え話を聞いていた人たち、すなわち、祭司長や民の長老たちに次のように質問なさいました。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」と。この質問に対して、彼らは口をそろえて、「兄の方です。」と答えたでしょう。そこで、イエス様は徴税人や娼婦たちが、その民の指導者たちより先に神様の国に入るだろうと言いながら、その理由についてはっきりと明かされたのです。それは、その罪人たちは洗礼者ヨハネを信じましたが、民の指導者たちは信じようともしなかったということでした。つまり、徴税人や娼婦たちは悔い改めたけれども、祭司長や民の長老たちは自分たちを顧みようとも、悔い改めようともしなかったということでしょう。

ここで、先ず、考えてみたいことが一つあります。それは、悔い改めるとは、どういうことなのか、についてです。今日の福音の言葉をそのまま借りると、悔い改めるとは、「考え直すこと」です。今日の例え話の長男は最初、父親の指示を断りましたが、結局、父親に従いました。というのは、自分の考えを捨てて、父親の望みを選んだということでしょう。この話が理解できるなら、悔い改めることとは、その父親、すなわち、御父である神様のお望みを思い巡らして調べることでもあるのが分かります。つまり、自分の望みよりも、神様が何を望んでおられるのかを考えることなのです。そして、そのお望み通りに実行すること、それこそが悔い改めるこのではないかという気がします。

悔い改めることについて、次のようにも考えることができると思います。今日の例え話の次男は、父親の指示に対して「承知しました」と答えましたが、結局、彼は父親に背きました。自分のことにしか気を遣わなかったでしょう。そして、彼は父親の指示が自分の邪魔をすること、或いは、自分を強いる命令のようだと思ったかもしれません。それは長男も最初同様だったかもしれませんが、そうだとしても、長男は父親に従いました。その長男の姿を考えてみたら、悔い改めることとは、神様からの厳しい命令ではなく、温かいお望みであることが分かります。神様は、わたしたちに悔い改めることを命令なさらず、むしろ、温もりに満ちた父親のように望んでおられるのです。その悔い改めや回心は、決してわたしたちの邪魔をするためのものではなく、神様ご自身との交わりに導くためのものでしょう。そういう意味で、悔い改めることによって、わたしたちは自分の信仰を新たにすることができるとも言えるのです。

ところで、今日の例え話は先週の主日と同じく、「ぶどう園での働き」をモティーフとしています。でも、今日のお話のぶどう園は誰のものなのかが分かりません。恐らく、その父親のものだと思われますが、もしかしたら他人のぶどう園かもしれないし、その確かな情報はありません。父親は自分の息子たちに労働の喜びを悟るようにと、わざわざぶどう園に送ったかもしれません。とにかく、自分のぶどう園か他人のぶどう園かにかかわらず、父親は息子たちが働くことを望んだでしょう。神様は、わたしたちがご自分のお望みどおりに働くことによって、その働きの喜びを共に味わい、また、共に分かち合うことを望んでおられます。

それについては、ぶどうやぶどう酒に関する旧約の言葉を考えてみても、よく分かります。旧約聖書は、ぶどうとぶどう酒が神様と人とを喜ばせるものであるという風に語っています。それを思い起こしてみたら、わたしたちの働きは、神様と人とを喜ばせるものとならなければなりません。自分を満足させたり、喜ばせたりすることでなく、あくまでも神様と隣人を喜ばせること、それこそが悔い改めた人たちの姿だと思います。教会とは、神様の永遠のぶどう園のしるしであり、世の中も神様のぶどう園なのです。ですから、教会の中では勿論、外でも、自分の考えでなく、神様のお望みが何かを調べながら、それに従って働くことが大事なことです。それによって、わたしたちと神様、わたしたちみんなの喜びはもっと大きくなるでしょう。悔い改めの喜びが、信者の皆さんの心に満ち溢れるよう、お祈りいたします。