今日もわたしたちは、ぶどう園をモティーフとした例え話を福音として聞きました。今日は特別に、第一朗読を中心にして、イエス様のみ言葉を黙想したいと思います。今日の第一朗読は、神様がイスラエルをどれほどいつくしみ、また、憐れんでくださったのかについて語っています。神様はそのイスラエルをご自分のぶどう畑のようなものとし、まるで、農夫のようにその民を育ててくださいました。朗読には、神様が「肥沃な丘に」そのぶどう畑を持っておられたという風に書いてありますが、最初から肥沃な畑だったわけではありません。最初は、荒れ果てた貧しい土地だったかもしれません。そんなところを肥沃な土地に変えるため、自ら汗を流された神様のお姿を想像してみましょう。その貴い御手で土を耕し、そこに一本一本ぶどうの苗を優しく植え、心を込めて水を注いでくださるそのお姿。しかし、そのぶどう畑に植えられたぶどうの木であるイスラエルは、おいしい実どころか、酸っぱいぶどうを結んでしまいました。そこで、神様はご自分の大事なぶどう畑であるイスラエルを訴え、神様ご自身がどのような裁きを下そうとしておられるかを、明らかにされたわけです。その裁きはとても厳しく、「囲いを取り払い、焼かれるに任せ、石垣を崩し、踏み荒らされるに任せ、わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず、耕されることもなく、茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。」というものでした。なぜ神様は、その大切なぶどう畑、すなわち、イスラエルをそれほど呪われたのでしょうか。

それについては、先ほどの箇所に続く次の言葉から分かります。「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに、見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに、見よ、叫喚(ツェアカ)。」ここで、神様はご自身がどうしてイスラエルを訴え、また、裁かれるのか、その理由を明かされました。それは、彼らが結んだのが、裁きでなく、流血だったから、また、正義でなく、叫喚だったからでしょう。ここに書いてある「裁きと正義」とは、単なる法的な言葉ではありません。それは、あらゆる形の命を大事にする裁きであり、すべての争いを避け、神様のお望みを共に実現する正義なのです。自分の基準や考えに基づいた裁きは色々な形で隣人を殺してしまい、その様々な基準と考えによる争いは、絶え間なく起こるはずでしょう。

神様が望んでおられたのは、ただご自分の民イスラエルが、慈しみと憐れみ、そして愛に満ちた豊かなぶどう畑となることだけでした。それだけが神様のお望みだったのに、イスラエルの民はその神様のお望みを無視し、互いに裁き合い、争い合いながら、流血と叫喚の道を歩み続けたのです。それでも神様は多くの預言者を送り、その民をご自分のもとに立ち返らせようとされましたが、イスラエルはそれに従おうともしませんでした。そればかりか、むしろその預言者たちを迫害したり、殺したりしたわけです。そこで、神様はご自分の独り子を遣わして、イスラエルを正しい道に導き、ご自分のぶどう畑の美しい姿を取り戻そうとされました。しかし、その期待は叶えられず、イスラエルはその大切な独り子まで殺してしまったのです。

今日の福音でイエス様は、イスラエルのその愚かな歴史と、ご自身がどのように扱われて殺されるのかについて、前もって示してくださいました。結局、イエス様ご自身が言われた通り、人々に退けられ、ゴルゴタの丘の上で、十字架に釘付けられて殺されたのです。ここで、もう一度、想像してみましょう。神様はその悲しい丘をイエス様の十字架を通して再び耕されました。そこで、イエス様は真のぶどうの木として植えられ、自ら血を流してその荒れ地を潤し、神様の新しいぶどう畑を造り上げられたのです。その新しいぶどう畑とは、言うまでもなく、神様の慈しみと憐れみと愛が満ち溢れる教会でしょう。また、神様は、まるでゴルゴタのように荒れ果てたわたしたちの心をイエス様のみ言葉で耕し、そこにイエス様の愛を植えてくださいました。そして、聖霊の恵みを雨のように注いで、イエス様のご聖体で養おうとしておられます。それは、わたしたちが、神様と人々とを喜ばせるための慈しみと憐れみと愛の実を結ぶぶどうの木となるためです。神様はただそれだけを望んでおられるのです。

この三週間のイエス様のみ言葉を思い起こしながら、この二俣川の丘の小さな教会を考えてみましょう。わたしたちはあくまでも、神様からこの小さなぶどう畑を貸していただき、このぶどう畑の働き手として招かれている人たちです。それは、みんなが神様のみ旨を調べ、それを叶えるために働くためです。また、このぶどう畑に植えられたぶどうの木として、慈しみと憐れみと愛の豊かな実を結ぶためでもあります。ここは神様ご自身がイエス様の十字架で耕し、その聖なる御血で潤し、御体で養われる神様のぶどう畑です。これからもわたしたちがここで共に交わり、共に働き、共に育って多くの実を結び、その喜びを神様とみんなで共に分かち合えるよう、お祈りいたします。