先日、青年たちと分かち合いの機会がありました。その分かち合いのテーマは色々でしたが、「あなたにとって教会とは。」というテーマがあり、わたしもそれについて自分の考えを話しました。その時わたしが話したのは、「わたしにとって教会とは、召命の源、泉である。」という考えでした。ところが、どういうわけか分かりませんが、今日の福音を黙想している間、その考えが思い起こされ、頭からなかなか離れませんでした。そこで、今日はそういう観点から、信者の皆さんと共に福音を黙想してみたいと思います。

今日の福音でイエス様は、この世の終わりの日のことについて、例え話を用いて教えられました。この例え話は、旧約の歴史、すなわち、絶え間なく神様に背いて、罪に罪を重ねて犯した歴史を思い起こさせながら、最後の日、神様の国にどんな人たちが入れるかについて語っています。例え話には、王子の婚宴を準備し、その宴に多くの人を招いた王が登場します。その王は御父である神様を、また、その王子はイエス様を表しています。そして、すでに招かれていた人たちは旧約のイスラエルの民を表し、彼らが無視したり、ないがしろにしたり、或いは、殺したりした家来たちは、旧約の預言者たちを表しています。また、新しい家来たちに町の大通りでいきなり連れて来られ、宴会に与った人たちは、イエス様の福音を聞き、神様を信じるようになった新しい民を示しています。それで、全体的に考えてみると、神様はモーセとの契約によって結ばれたイスラエルの民を退け、その代わりに、イエス様の十字架によって結ばれた新しい民を、ご自分の国に迎え入れてくださることが分かります。

ここで、 考えてみたいことが一つあります。それは、「なぜ、すでに招かれていた人たちは、王を無視したり、畑や商売に行ったり、家来たちを殺したりしたか。」ということです。それほど、その王は国民たちに人気がなく、また、愛されなかったでしょうか。もしそうだとしたら、それはどういうわけだったでしょうか。どうして彼らは、王子の婚宴と、それを用意した王の招きを無視し、畑や商売よりも、多くの家来たちの命よりも軽く扱ったのでしょうか。その答えは、今日の第一朗読の次の言葉から分かると思います。それは、「主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる。」という言葉です。今日の聖書と典礼にも書いてありますが、その布とは、喪に服する際に顔を覆うものであり、或いは、死者の顔を覆うものかもしれません。つまり、今日の福音で王を無視したり、軽んじたり、その家来たちを殺したりした人たち、すなわち、旧約の民は死の布で覆われて、命の道をわきまえていなかったということです。みんな、世の中のことや自分のやりたいことに捕らわれて、神様に導かれようとも、その神様と交わり、その交わりの宴の喜びを共にしようともしなかったでしょう。彼らにとって、神様は邪魔な存在で、その意向を調べることは、もう無駄な事だったに違いありません。そして、自分たちを正すために遣わされた多くの預言者たちを無視したり、迫害したり、殺したりしたわけです。

そこで、神様はご自分の独り子を通して新しい民を呼び集められ、その独り子の血によって、その民と新しい契約を結ばれたわけです。その新しい民は、ただ、神様の慈しみと愛を信じ、神様の御言葉やイエス様の福音から生き方を学び、それに沿って生きる民なのです。彼らは、何よりも神様のお望みを調べ、それを神様が示してくださるやり方で行うことこそが、自分たちへのお招きだと信じる人たちでしょう。その人たちは、まさに、教会の人たちに違いありません。今日の第二朗読に記されているように、わたしたちは、どんな状況の中でも揺らぎません。色々な状況によって揺らぐのは、神様に従わず、自分のことだけを考えるからでしょう。わたしたちは神様によって導かれ、守られ、満たされている人たちです。神様により頼みながら、先ず、神様のみ旨だけを調べ、それを行うことを大事にしましょう。それこそが、わたしたちの召命であり、神様は教会を通して、新しい召命に招こうとしておられます。それに喜んで応えること、それぞれの召命を認め合い、また、みんながそれぞれの召命を支え合うこと、神様はそれを望んでおられます。それこそが、永遠の宴に与るための礼服の準備だと思います。

今日の例え話の最後に登場した、婚礼の礼服を着ていなかったということで、宴会から追い払われた人のことを思い起こしましょう。いきなり大通りで連れて来られた人たちは、みな、着替えをする余裕もなかったはずなのに、彼だけが婚礼の礼服を着ていなかったでしょうか。その礼服と着替えとは何でしょうか。それは、悔い改めることでしょう。急いで婚宴に行かなければならないその状況の中でも、みんな、なんとかして着替えをして宴会に行きました。しかし、一人、そうしなかった人がいて、結局、彼は宴会から追い払われたわけです。悔い改めることとは、単に罪に対することだけではなく、考え直すことです。自分ではなく、神様のみ旨を調べ、それを素直に受け止めることです。自分の基準や考えという布を取り除いて、神様が望んでおられることを行うこと、それこそが、悔い改める人の着替えであり、その悔い改めによって、わたしたちは神様の国の宴にふさわしい新しい礼服を着ることができるのです。神様はイエス様の命を払って、わたしたちを覆っているあらゆる形の死の布を取り除き、信仰者という新しい礼服を着せてくださいました。その神様の慈しみと愛に感謝しつつ、わたしたちも神様と隣人との交わりの中で生きてまいりましょう。