十字架の聖ヨハネによると、わたしたちの魂は「暗夜」、すなわち、「暗い夜」を通して、神様に到達できるものです。その時、聖アウグスチヌスの言葉通り、わたしたちは神様をありのままに見る「至福直観」という大きな祝福を味わえるでしょう。確かに、信じる人にとって、自分を造ってくださった創造主である神様を直接に仰ぎ見ることは、この上なく大きな祝福であるに違いありません。神様はご自分を直接に仰ぎ見ることを望むわたしたちの魂の渇きを癒すために、ご自分の独り子を遣わし、その独り子を通して、わたしたちがご自分の姿を見ることができるようにしてくださったわけです。実に、わたしたちはイエス様を通して、神様を知り、神様を仰ぎ見ることができ、更に、その永遠の宴にまで前もって招かれているのです。

今日の福音で、イエス様は神様の国について、花婿を迎えに出かけた十人のおとめたちの例え話を通して教えられました。その十人の中、五人は賢く、五人は愚かでした。イエス様はその二つのグループの基準を「壺に油を入れて準備していたか否か」に置かれました。賢いおとめたちは、ともし火と一緒に壺に油を入れて準備していたでしょう。しかし、愚かなおとめたちは、ともし火だけを持っていたわけです。ところが、花婿は予想外に遅れてしまい、十人のおとめたちは思いがけず、みんな眠ってしまいました。それからどれほど時間が経ったでしょうか。ついに、夜中、花婿の到着を告げる叫び声があがりました。「花婿だ。迎えに出なさい。」と。

その叫び声を聞いた十人のおとめたちは、それぞれのともし火を整え始めたに違いありません。しかし、賢いおとめたちと愚かなおとめたちの様子はずいぶん違ったでしょう。言うまでもなく、油の入った壺を持っていた賢いおとめたちは何の心配もありませんでしたが、油を持っていなかった愚かなおとめたちは、慌てふためき始めたでしょう。彼女たちのともし火が消えそうになったからです。そこで、愚かなおとめたちは賢いおとめたちに、油を分けてくれるようにと頼みましたが、賢いおとめたちはそれを断り、更に、「店に行って、自分の分を買ってきなさい。」と言ったわけです。仕方なく、愚かなおとめたちは店に向かって足を運びましたが、ちょうど、その間に花婿は到着し、準備のできていた賢いおとめたちは、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸は閉められたのです。その後、ようやく遅れてやってきた愚かなおとめたちは、「ご主人様、ご主人様、開けてください。」と言いました。しかし、家の中から聞こえてきた主人の答えは、「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない。」というものでした。最後に、イエス様はこの例え話の結論として、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」とおっしゃいました。

そもそも、この例え話は「世の終わりの日」のことを示すものですが、信仰者にとって、その日はすでに、「今、ここから」始まるものです。言い換えれば、いつか必ず到来するその日は、「わたしたちの中」から始まり、イエス様の再臨の日に完成されるということです。その日、わたしたちは皆、真の花婿であるイエス様を迎えるでしょう。そして、イエス様と永遠に結ばれる喜びの宴会に入るに違いありません。でも、イエス様がおっしゃった通り、その日、その時は、わたしたちには分かりません。ですから、ちゃんと準備することが大事で、今日、イエス様はその準備として、ともし火と壺、また、油について教えてくださったわけです。

そのともし火とは「信仰」、壺とは「希望」、油とは「愛」。信仰の明かりは愛の力で輝き、愛は希望の中で膨らみます。神様の国への希望がなければ、神様と隣人を正しく愛することもできず、愛がなければ、信仰はただ鳴り響くラッパに過ぎません。あの愚かなおとめたちが手にしていた「ともし火たちの嘆き」を聞いてみましょう。「わたしたちは花婿を迎えに出かけたわ。皆、わくわくしていたさ。でも、花婿が遅れてね、わたしたちの持ち主はみんな眠ってしまったの。そうしたら、真夜中に突然、『花婿を迎えに行きなさい。』と言う声がしたでしょう。でも、わたしたちの持ち主は壺も、油も持っていなかったの。急いで、店に買いに行ったわ。そして、やっと花婿のいる家に着いたわ。でも、花婿はわたしたちを知らないと言ったの。アー悲しいよ。わたしたちはただ、持ち主の道だけを照らしてしまったわ。その愚かな持ち主の道だけを。わたしたちは、花婿の美しい姿を仰ぎ見ることができなかったのよ。」

わたしたちは皆、神様の国に向かって、この暗い夜のような世の中で、信仰の道を歩んでいます。その国で、神様をありのままに見ることができ、その時、わたしたちの魂は真の喜びに満たされるでしょう。「今、ここで」、互いに理解し合い、受け入れ合い、愛し合い、喜び合い、交わり会いながら、すべてを共にすることによって、わたしたちの信仰のともし火の明かりは強められ、希望の壺はどんどん大きくなり、愛の油は満ち溢れるはずです。イエス様を迎えるための信仰のともし火を持って、神様の国への希望を壺とし、その壺の中に、イエス様の教えられた愛を一杯満たしましょう。その恵みを祈りながら、しばらく黙想しましょう。