間主日の第一の叙唱によると、教会とは、「主キリストの過越の神秘によって成し遂げられた」救いの「偉大な業」によって、「罪と死のくびきから栄光に」召され、「闇から光へ移してくださった」神様の「偉大な力を世界に告げ知らせる」使命を持っている「選ばれた種族、神に仕える祭司、神聖な民族、あがなわれた国民」であるのが分かります。

第二バチカン公会議によって、典礼も変わり、教会の自己認識も変わりました。教会は世の中と違う別世界、別存在ではなく、世の中で神様の救いの御業を証しする人たちの集まり、神様のみ旨に従って、神様の御心に適う実を結ぶ人たちの集いという認識が生じました。その教会には、聖職者、修道者、信徒の三つの身分がありますが、みんなが「神様の一つの民、兄弟姉妹」なのです。そこで、ネガティブ的なイメージの聖職者中心主義を警戒し、神聖な交わりが強調されているわけです。勿論、公会議や普遍教会法によって、司教様の固有な権限である「教える職務、聖化する職務、統治する職務」が主任司祭に委ねられていますが、それは主任司祭の独裁を許容するためでなく、司祭に大きな責任があることを示すためのことです。

確かに母なる教会は、聖職者だけのものでも、修道者だけのものでも、信者だけのものでもありません。あくまでも、教会は神様のものであり、また、そうあるべきなのです。神様は今も、いつも、世の終わりの日まで、この教会を通して、信じる人を呼び集められます。それは、すべての人を救うためで、神様はそのためにご自分の御独り子であるイエス様の命を惜しまずささげられたでしょう。その救いの呼びかけには、如何なる条件も疎外もありません。神様に造られたすべての人がその対象となるのです。そして、その呼びかけによって集められた人々、つまり、教会の中にも一切の条件、疎外、差別、偏見、分裂、分派、勢力などがあってはいけません。母なる教会は、多様性と一致を追求し、あらゆる時代のすべての人が、神様の救いに与り、それぞれいただいた恵みを活かしていく共同体となるべきです。

その観点から見ると、今日の第一朗読は、その母なる教会の姿をうまく示しているような気がします。神様は、教会をご自分の独り子であるキリスト・イエス様の妻とし、その妻である教会が、賢い主婦のようであることを望んでおられます。そして、教会がそうなれるように、いつも、ご自分の霊を注いでくださいます。その聖霊に導かれて、教会は自分の子供であるわたしたちを、神様の御言葉とイエス様の御聖体を通して養います。実に、わたしたちは御言葉の食卓と、御聖体の食卓を囲んだ神様の子供たちなのです。わたしたちはこの二つの食卓に共に与り、また、交わりながら、成長していくわけです。この食卓から神様の慈しみと憐れみ、イエス様の愛を学び、神様の恵みと力に励まされて、貧しい人や乏しい人、悲しんでいる人や苦しんでいる人に、必要な恵みを分け与え、また、施すことができるのでしょう。

今日の福音でイエス様は、僕たちに自分の財産を任せて旅をしたある主人のことを、例え話として聞かせてくださいました。僕たちは、主人からそれぞれ、五タラントン、二タラントン、一タラントンが預けられたそうです。ところが、五タラントンを預かった僕と、二タラントンを預かった僕は、それを活用して、それぞれ二倍の金を主人に返しました。しかし、一タラントンを預かった僕は、それを土の中に隠しておき、旅から帰って来た主人に一タラントンをそのまま返したわけです。そこで、主人は、その僕に怒り、彼の一タラントンを取り上げ、更に、その役に立たない僕を外の暗闇に追い出したのです。最初、主人は自分の財産を分けて、僕たちの力に応じてその金を任せたでしょう。つまり、主人は自分の僕たちの力を知り、また、信じていたのです。しかし、一タラントンを預かった僕は何もせずに、主人の信頼に背いたわけです。彼にも理由はありましたが、それは、主人に対する自分勝手な考えだったでしょう。彼は、主人の能力と働きを見いだせず、それを主人の厳しさだと思い込んだに違いありません。でも主人は、自分の大きな財産を僕たちに任せるほど、僕たちを信じていたのです。

その主人は、まさに、神様を表しているでしょう。神様はご自分の独り子を通して示された、慈しみと愛による救いの神秘をわたしたちに任せるほど、わたしたちを信頼しておられます。わたしたちの主人である神様ご自身が、わたしたちをそれほど信頼してくださるのであれば、わたしたちも皆、互いに信頼し合い、協力し合わねばなりません。神様はわたしたちを信頼し、各々に色々な能力と知恵と力を授けてくださいます。それは、わたしたちが互いに愛し合い、理解し合い、分かち合い、尊重し合いながら、すべてのことを共にして、多くの実を結ぶことを望まれるからでしょう。その神様のお望みどおりにした時、まさに、わたしたちは世の中の暗闇でなく、まことの光であるイエス様に属し、更に、神様に属する人となれるのです。全てのことを共にし、その喜びが満ち溢れる神様の民となれるよう、お祈りいたします。