先週の水曜日から今年の四旬節が始まりました。その水曜日は「灰の水曜日」と呼ばれ、その日のミサに与った信者は皆、頭に灰を受けました。その儀式のとき、司祭は一人一人の頭に灰を載せながら、「あなたは塵であり、塵に帰って行くのです。」という、創世記の御言葉を唱えます。それは、人間がどれほど憐れなものなのかを表す言葉でしょう。

神様はご自分の愛を込めて土から人間を造り上げ、先に用意しておかれた豊かな自然万物の中に、人間を住まわせてくださいました。こうして、神様は人間をご自分との永遠の交わりに招いてくださったわけです。しかし、人間はその神様に背いて罪を犯し、その罪によってすべてを失ってしまいました。そのかわいそうな身の上を表すのが、まさに、「あなたは塵であり、塵に帰って行くのです。」という言葉でしょう。神様からいただいたすべてを失った人間は、結局、塵に帰る日まで、何という希望もないまま、荒れ野でさ迷うしかない存在となってしまったわけです。四旬節はいつも、その悲しい出来事を思い起こしながら始まりますが、一方、四旬節の間、わたしたちは新たな希望を見出せます。それは、イエス様による新しいいのちへの希望です。

今日の福音で、神様の「霊」は、イエス様を荒れ野に送り出しました。その昔、すべてを失って神様の園から追い出された人間の、目の前に現れた荒涼とした景色、それが荒れ野だったでしょう。イエス様は神様の霊によって、その惨めな人間の苦しみの真ん中に立つこととなりました。「神様の霊によって」と言うのは、神様ご自身がイエス様の荒れ野での苦しみを望まれたということです。言い換えれば、神様は塵に帰らなければならない人間を救うために、先ず、神の独り子である救い主が、塵にすぎない人間の現実を味わうように計られたわけです。その荒れ果てたところでイエス様を待っていたものは何だったのでしょう。それはいのちを脅かす危うい現実、あらゆる形で人間を罪に導く様々な誘惑だったのです。

今日の福音には、「野獣」という言葉と、「サタン」という言葉が書いてあります。それは、まさに、わたしたちの毎日の現実を表す言葉ではないでしょうか。野獣のように争い合わねばならない日々の生活。絶望と挫折をもたらす罪や過ちへの執拗な誘惑。その結果、味わわねばならないトラブルや恨み、妬み、憎しみ。そして、思い煩いなど、イエス様は、わたしたちが生きている同じ荒れ野で、同じことを経験されたのです。それは、わたしたちの苦しみを共にするため、また、神様への信仰によって、その苦しみと罪とに打ち勝つ道を示すためだったわけです。聖書は、「天使たちが仕えていた」という言葉で、イエス様がその悲惨な荒れ野でも、常に神様と交わっておられたことを表しているのです。それは、わたしたちも荒々しい現実の中で、神様のみ旨だけを調べ、神様だけに従う人となることを望まれたからでしょう。

その荒れ野での四十日を経て、イエス様は、「福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。』」と勧められました。その「時」とは、救いの時で、新しい契約の時でしょう。そして、御国とは、新しい契約の民のための国なのです。その契約に与り、その国に入るために必要なのは、悔い改めてイエス様の愛の御言葉を信じ、その愛の掟を守ることなのです。イエス様はその御国のしるしである教会に、ご自分の血を流して結んだ新しい契約を委ねられました。そして、悔い改めた人たちと結んだその契約の宴が続けられることを望んでおられるのです。信仰があっても、神様を優先視しなければ、その信仰者は様々な誘惑だらけの悲しい荒れ野でさ迷うしかありません。

四旬節とは、イエス様の受難に与り、その復活の命をいただくための準備の時です。この四旬節の間、今までわたしたちがどういう風に神様と交わってきたのかを顧み、悔い改めて福音の生き方に沿って生き、復活の喜びを味わうことができるよう、お祈りいたします。