今日の福音で、イエス様は重い皮膚病を患っていた人に出会い、彼を癒されました。彼はその癒しの恵みをいただく前、先ず、イエス様のところに来てひざまずきました。イエス様のところに来るまで、彼はどれほど悩んだでしょうか。まさに、聖書に書いてある「重い皮膚病」とは、共同体生活に入れない病気だったのです。言い換えれば、いつも多くの群衆に囲まれておられたイエス様のところに足を運ぶには、大きな勇気が必要だったわけです。もしかしたら、その時イエス様のところに多くの人が集まっていたら、きっと、彼らはその重い皮膚病を患っている人を見て驚き、逃げようとしたに違いありません。そこで、彼はイエス様が一人で、或いは、弟子たちだけと一緒におられるとき、イエス様のところに来たのだと思われます。

その大きな勇気を出し、ようやくイエス様のところを訪ねてきた彼は、イエス様の前にひざまずきました。それは、自分を限りなく低くする姿でしょう。自分にはイエス様だけが力であり、イエス様だけが希望であることを、彼はひざまずくことによってあらわしたのです。そして、彼は「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」と言いました。この言葉からも、彼の切なる心を垣間見た気がします。ここに書いてある「御心ならば」という言葉は、直訳したら「あなたが望むならば」だそうです。それは、すなわち、「あなたの望み通りになることを願います。」という意味ではないでしょうか。自分の望みではなく、イエス様の望んでくださることを願う。これは、何と素晴らしい信仰告白でしょう。そこで、イエス様も、「よろしい。清くなれ。」とおっしゃいましたが、その「よろしい」という言葉は、直訳すると、「わたしは望む」という意味だそうです。つまり、彼の願ったとおりに、イエス様は彼が清くなることを望まれたわけです。すると、病気は去り、彼は清くなりました。

ところが、彼が癒された後、イエス様は「だれにも、何も話さないように気を付けなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」と命じられました。しかし、彼はその指示に従わず、自分に起こったことを大いに人々に言い広め始めました。そこで、イエス様はもはや公然と町に入れず、町の外の人のいない所におられるしかなかったわけです。思い皮膚病を患っていた人は共同体に入ることが出来ました。それは、彼の代わりに、イエス様が彼の苦しみを担ってくださったからでしょう。それもイエス様の御心ではないでしょうか。イエス様は町の外の人のいないところにおられましたが、それでも、人々はそこに集まって来たそうです。きっと彼らは、ただイエス様の御心を求める人たちだったに違いありません。ここに、教会の姿が見えるような気がします。

イエス様は今日も、心に様々な重い病を患っているわたしたちを、教会に集めてくださいました。その病は、恨み、妬み、憎しみ、或いは、悩み、悲しみ、憂いなどでしょう。そういったわたしたちの病を、イエス様は癒すことができる方なのです。ただし、その恵みをいただくためには、自分の望みではなく、「御心ならば」、つまり、「イエス様が望むならば」という、自分をへりくだる姿勢が必要なのです。イエス様が望んでおられることを、わたしたちも共に望み、そのお望みがかなえられるように働くこと。それこそが、自分をへりくだることなのです。イエス様ご自身が、いつも神様の栄光のために働かれたように、わたしたちも神様の慈しみと愛を証しするために働くべきです。イエス様は、天にあるご自分の栄光の玉座を捨てて人となられました。それは、この地上にわたしたちのための玉座を備えるためだったでしょう。その玉座とは、信仰という玉座、教会という玉座でしょう。イエス様はご自分の命をかけて、この玉座を用意してくださいました。ですから、社会の中でも、教会の中でも、人を惑わす原因とならないようにし、ただ、互いに愛し合い、へりくだり合いましょう。アーメン。