今日の福音はあの有名な「ぶどうの木の例え話」です。この例え話は、勿論、イエス様とのつながりの大事さについての教えなのです。イエス様と繋がらなければ、その枝は何の実を結ぶことができないから、信仰者は常に、イエス様につながっているように心と魂を尽くさなければなりません。それこそが、信仰者の正しい姿勢でもあるのは言うまでもないでしょう。

ところで、この例え話は、「神様がどれほど、罪深く過ちばかりのわたしたちを愛してくださるのか」を、示しているかのような気がします。その神様の愛に着いて、ヨハネは自分の福音書の他の箇所で、「ご自分の独り子を与えてくださるほど」と語っています。神様がその独り子を与えられたのはわたしたちの罪と死を、独り子であるイエス様に担わせるためだったでしょう。イエス様は、わたしたちの代わりに、御父である神様のお望みどおりに、その罪と死のしるしである十字架に釘付けられたのです。その御父と御子の愛は、何と大きいでしょうか。

しかし、神様の愛は、イエス様の十字架上の犠牲だけで止まりませんでした。十字架の上で死んでしまったイエス様が復活されたのです。その復活こそが、まさに神様の愛の決定版で、その復活によって、罪と死のしるしであった十字架は、赦しと命のしるしとなったわけです。今まさに、十字架は死んでしまった木、枯れた木でつくられたものでなく、生き生きとして「復活とその復活の命」という、すばらしい実を結ぶ木となったでしょう。

神様は、イエス様の死と復活によって新たになった十字の木を、新しい「ぶどうの木」とされました。そして神様は、その新しいぶどうの木から、今度は多くの新しい枝が生え、御自身とすべての人を喜ばせる、豊かな実が結ばれるようにしてくださったわけです。その新しいぶどうの木は教会であり、新しい枝は神様をまごころから信じる人たちでしょう。

ここに、神様の特別な愛と、その愛による深い計らいが示されています。それは、神様は、キリストの十字架という新しいぶどうの木に信じる人々が結ばれ、キリストと共に働けるようにされたということです。あらゆる罪と過ちだらけのくだらない人間が、神様の独り子であるキリストと共に働けるようになった。これは、何と素晴らしいことでしょうか。

ここで、もう一つ考えてみたいことがあります。今日の福音の中で、イエス様は次のようにおっしゃいました。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」と。この御言葉から分かるのは、御父もキリストとともに働かれるということでしょう。御父は賢い農夫として、御子は生き生きとしたぶどうの木として、そして、真心を持つ信仰者はその木の枝として、共に働くのです。こうして、キリストというぶどうの木は、御父の働きに支えられ、また、まことの信仰者の働きをとおして、豊かな実を結ぶこととなるわけです。

さて、イエス様はご自身が「まことのぶどうの木である」とおっしゃいました。それでは、「偽りの木」もあるでしょうか。事実、偽りの木だけでなく、偽りの枝もあるわけです。その偽りの木はキリストの働きも、御父の働きも必要とせず、自分なりの実を結び、それを自分の誇りとします。そこで、イエス様は最後に、「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」と言われたのです。弟子となってから実を結ぶのでなく、実を結ぶことによって弟子であることが証しされるという意味でしょう。信仰者が実を結ぶのは、自分を満足させるためでなく、神様のみ旨に適う枝となるためです。御父、御子と共に働ける喜び、それで十分でしょう。しばらくの間、黙想しましょう。