今日の第一朗読は、生まれたばかりの教会共同体の姿について語っています。その初期教会については、同じ使徒言行録第2章の43節から47節にも書いてありますが、43節から45節は、今日の第一朗読とほぼ同じです。ここで、46節から47節までの内容も聴いてみましょう。「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」

教会のありさまについて、特に関心が高まり始めたのは、第二バチカン公会議からだと言われています。公会議は先ず、聖書から教会のあるべき姿を調べ、それについて深く黙想しつつ、議論し合い、ついに、教会の本質的な姿を示しました。その公会議が注目した聖書の箇所が、まさに、今日の第一朗読と、先ほどわたしたちが耳にした箇所なのです。公会議はこの二つの聖書箇所を中心として、聖書全体を調べ、また、議論し合ったうえで、教会のありさまについて示したわけです。果たして、公会議が示した教会のありさまとは何だったでしょうか。

まず、教会は常に祈るべきです。最初の信徒たちは、「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」、神様を礼拝しました。彼らは、心を一つにして神様に祈ることの大事さを分かっていたに違いありません。そのような祈りによって、自分たちが一つとなることができると思ったからでしょう。そして、「家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心を持って一緒に食事をし、神を賛美していました。」これは、いわゆる、「パンの分け合い」、すなわち、ミサだったでしょう。こうして、生まれたばかりの教会の信徒たちは、祈り、特に、ミサ聖祭から、教会共同体の生き方、ありさまを見つけていたのです。彼らは何をするにせよ、先ず、神様のお望みを一つの心、真心を持って一緒に調べ、神様からの諭しを祈り求めたでしょう。「絶えず祈られたイエス様のように。」でも果たして、今の教会はその祈る力を持っているでしょうか。

次に、教会は信仰を伝えるべきです。その信仰とは、言うまでもなく、「イエス様の復活」についての信仰でしょう。イエス様の復活は神様の慈しみと憐れみの証拠であり、イエス様ご自身が神様の愛の証しであることを示す出来事なのです。神様は、羊や牛などの動物ではなく、イエス様を唯一真のいけにえとされました。そのイエス様によって、古い契約は終わり、新しい永遠の契約が結ばれたのです。初期教会の信徒たちはイエス様が復活されたことについての信仰を、使徒たちから学び、悔い改めた人たちでした。そして、使徒たちと共に至る所で宣べ伝える共同体だったに違いありません。「至るところで神様の慈しみと愛を宣べ伝えたイエス様のように。」では、今の教会は信仰を学び、悟り、素直に認め、その信仰を伝える力を持っているでしょうか。

三つ目、教会は愛を証しするべきです。最初の信徒たちは、全てを共有し、分かち合い、施し合ったそうです。誰も、何に対しても、「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなかった」でしょう。その持ち物とは、目に見える物だけでなく、自分自身のあらゆる物事だったにちがいないでしょう。彼らは 自分だけに拘らず、心を一つにして全てを共有しました。そこでは、何においても「貧しい人や乏しい人、疎まれる人や軽んじられる人はいなかった」でしょう。彼らは、「互いに愛し合いなさい。」というイエス様の掟に従って、互いに理解し合い、赦し合い、支え合い、分かち合ったのです。そして、あらゆる良い業を行うことによって、イエス様の愛を証ししたはずです。「十字架に至るまで愛を証しされたイエス様のように。」果たして、今の教会はその愛を証しする力を持っているでしょうか。

イエス様の釘跡とわき腹を見て信じたトマスは、使徒団に戻りました。教会において、聖霊により頼むことによる一致は大事なことです。使徒たちや初期教会の信徒たちは皆、その聖霊によって一つとなったでしょう。「いつも御父と一つであったイエス様のように。」今のわたしたちの教会は、その聖なる交わり、聖なる一致の力を持っているでしょうか。