日は主の昇天の祭日です。この日は、復活されたイエス様が天に上げられたことを記念する祭日です。イエス様は復活された後、40日間、地上にとどまりながら、度々弟子たちに現れました。それは、ご自分が復活された事実を、彼らがしっかりと信じるようにするためだったのです。実に、イエス様の死の後、彼らは皆、「これからどうしたらよいのか、これから何が起こるだろうか。」などについて、悩んだり心配したりしていました。そして、ある人たちは自分たちの故郷へ戻ろうとしたり、ある人は「イエス様の弟子のグループ」から離れたりしたわけです。こうして、「イエス様の弟子共同体」は崩れてしまう危機に陥ってしまったのです。

しかし、復活されたイエス様が現れてから、彼らは変わり始めました。彼らの信仰は、根本から変わり、成長したのです。実際、イエス様が死ぬ前、彼らはいつもイエス様と一緒にいながら、確かに自分たちの耳でみ言葉を聴いたり、その目ですばらしいしるしを目撃したわけです。それによって、彼らの信仰はゆっくりゆっくりと芽生え、成長し、イエス様に自分たちを任せ、また、イエス様に自分たちの様々な希望を置くことができたでしょう。

でも、イエス様は彼らの信仰がもっと大きくなることを望まれました。つまり、イエス様は、彼らが肉体の耳でみ言葉を聴き、肉体の目でご自身を見つめることに留まらず、霊の耳でみ言葉を聞き、霊の目でご自分を信じるようになることを望まれたのです。そこで、復活されたイエス様は、度々彼らの目の前に現れましたが、それによって、彼らの信仰は肉体的なものから、霊的なものに変わったわけです。イエス様は、もうご自分の体をもって彼らと共におられるレベルではなく、もっと高くもっと深い、霊的なレベルの信仰に彼らを導き始められたのです。

そして、今日、イエス様は彼らの目の前で天に昇られました。そのイエス様の姿を見つめていた弟子たちは、再び、悩みと思い煩いに包まれていたに違いありません。それについては、今日の第一朗読が語っていますが、彼らは茫然としていたでしょう。しかし、イエス様の昇天は、彼らの信仰をより一層強くするためのことでした。それは、彼らが、聖霊を通していつも共におられるイエス様を信じるようになるためだったに違いありません。

「目で見えなくても、耳で聞かなくても、手で触れられなくても、イエス様はいつも共にいてくださる。だから、頼もしくて信頼できるイエス様にすべてを任せて行こう。ただ、イエス様に従おう。」これこそが、イエス様が望まれる信仰でしょう。地上にいても、天にいる人として生きていくこと。今日の第二朗読は、わたしたちみんなが、イエス様のようになることを勧めています。それは、「謙遜、柔和、寛容、忍耐、平和、一致、イエス様に対する信仰と知識において一つのものとなること、成熟した人間となり、霊的に成長すること。」何より、イエス様を遣わされた神様のみ旨に適う人であるのは、言うまでもないと思います。わたしたちは皆、そうなるために召された人たちでしょう。主の昇天を相応しく記念する人は、そういった人柄を目指して生きていくべきです。

さて、ミサの中で司祭は叙唱を唱える前、信者の皆さんを招きます。「主は皆さんとともに、また、あなたと共に。心を込めて神を仰ぎ、賛美と感謝をささげましょう。それはとうとい大切な務めです。」ここに「心を込めて」という箇所があります。ラテン語では「Sursum corda」と唱えますが、直訳したら「心を引きあげて。心を持ちあげて。」となると思います。わたしたちは、地上にいても心を天に上げること、天に昇られたイエス様に心を向けること、そして、地上のやり方と生き方に沿って生きるのでなく、天の市民らしく生きることを目指しましょう。今日、主の昇天と共に、わたしたちの信仰と希望と愛がもっと強められるようお祈り致します。