今日は三位一体の祭日で、神様の特別な神秘を祝う日です。ただひとりの神様は、父と子と聖霊の三つのペルソナを持っておられます。しかし、この三つのペルソナは一切の分裂や分割もなく、完全に一つとなっておられます。この一致の神秘は、人間の知恵では理解できません。そこで、昔から信じるべきものとして受け止めるようにと勧められています。でも、「理解できないから、ただ信じます。」という言葉だけで済ませてよい神秘ではないという気がします。
この三位一体の神秘は、神様ご自身から示されました。つまり、人間の能力で考え、まとめたものではないということです。御父である神様は、ご自分の独り子であるイエス・キリストを遣わされ、そのイエス様によって、この神秘を明らかになさったわけです。イエス様はかつて、「父とわたしは一体である。」という風におっしゃいました。その「一致の神秘」によって、ユダヤ人はつまずきましたが、この神秘は、聖霊降臨によってはっきりと現わされたのです。それでは、なぜ、神様はご自分のありさまである神秘を、聖霊降臨を通して私たちに示してくださったのでしょうか。それは、一言で、「わたしたち人間への愛」のためだと言えます。
今日の福音で、イエス様は天に昇る前、弟子たちに福音宣教の使命を授けられました。その際、イエス様は「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とおっしゃいました。ここで、特に注目したいのは、「父と子と聖霊の名による洗礼を授ける」ことです。これはただ典礼的に、洗礼を授ける際に唱えるべき言葉を示しているわけではありません。これは、わたしたちが三位一体の神様に招かれていることを表しているのです。
その神様のお招きの目的とは何でしょうか。それは、わたしたち人間の救いのためでしょう。神様はそのために、ご自分の独り子を遣わされました。そして、その独り子であるイエス様に罪人のしるしである十字架を担わされ、その十字架上で大事な独り子の命を献げられたのです。それは、なんと偉大なみ業でしょうか。人間としてだれもができないことだからこそ、神様は自らそれをなさったわけです。そればかりか、神様はイエス様の復活を通して、救いの確かなしるしを示し、その救いへの希望をも抱かせてくださいました。また、救いに与る人たちに、ご自分の霊を注いでくださったのです。こうして、わたしたちは三位一体の神様の神秘に与るようになったわけです。その素晴らしい神秘に与ること、それこそがわたしたちの救いなのです。その与りのしるしとして、わたしたちは洗礼を受け、神様の子供となりました。そして、今日の第二朗読に記されている通り、わたしたちは神様の子供たちですから、相続人でもあります。わたしたちは、その身分にふさわしく生きていかなければなりません。
そのふさわしい生き方とは何でしょうか。それは、今日の福音にも書いてありますが、「イエス様の弟子となり、イエス様の命令を守ること」でしょう。イエス様は、ただ御父の御旨を果たすために来られました。イエス様は御父の御旨である聖なる思いを、御言葉と行いによって示し、また、証しされたわけです。その御父と御子は、常に聖霊の交わりの中で共におられ、同じ交わりの中で働かれました。その聖霊の交わりとは、言い換えれば、愛の交わりでしょう。わたしたちは、その交わりの中でイエス様の弟子となり、イエス様が命令された愛の掟を守ることができるのです。みんなが一つとなってただ神様の愛だけを思い、愛の言葉を語り、愛を行うこと。それこそが、三位一体の神秘に生きる人たちの真の姿でしょう。イエス様はその人たちと共におられるに違いありません。わたしたちもそうなれるよう、お祈りいたします。