キリスト者が逞しく、元気に生きていくための力は何でしょうか。その力を得るためには何が必要でしょうか。今日の福音の中で注目したい箇所があります。それは、「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて」という箇所です。イエス様は人々を教え、諭す時や、様々な奇跡を行う時、ご自分の内から力を出して人々を癒やされた、とも思われます。実に、多くの人たちは驚きながら、イエス様の言葉に力と権威があることを感じたようです。そして、ご自分の故郷の人たちは、イエス様の色々な行いを見て、「この人はどこからその力を得たのか」という風に互いに言ったのです。きっと、イエス様はその力を持って、悪霊を追い払ったり、病人をいやしたり、或いは、神様の御国のことを教えたりしておられたでしょう。

今日、イエス様はヤイロの幼い娘と、十二年も出血が止まらない女性を救ってくださいました。ヤイロは会堂長でしたが、死にそうになった自分の娘のために、わざわざイエス様のところを訪ねてきたのです。そして、イエス様にしきりに願い、イエス様と共に家に向かって行きました 。ところが、途中で、イエス様は出血が止まらない女性のために足を止められました。彼女は、イエス様の服に触れれば癒していただけると思ったのです。そして、イエス様の服に手を触れましたが、それだけで彼女の病気はすぐ治ったわけです。すると、イエス様はご自分の内から力が出て行ったことに気づき、ご自分に触れた人を探し始められたでしょう。そこで、彼女はすべてをありのまま話しましたが、イエス様は彼女の信仰を誉めたうえで、励ましてくださいました。こうして、彼女は救われましたが、その時ヤイロの心はどれほど焦っていたでしょうか。残念なことに、その騒ぎの間、ヤイロの娘が死んでしまいました。

その悲報を聞いたヤイロは、もしかしたら憤りを覚えたかもしれません。でも、イエス様は「恐れることはない。ただ信じなさい。」と言って彼を力づけてくださったのです。それから、彼の家に着いたイエス様は、大声で泣きわめいている人たちを戒めた後、娘の部屋に入られました。そして、娘の手を取って「タリタ、クム」、つまり、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」とおっしゃったのです。すると、少女は起き上がりましたが、イエス様はこのとこと誰にも知らせないように厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われました。

この二つの出来事から、キリスト者はただ、イエス様の力だけで生きる者であることが分かります。言い換えれば、イエス様の力によらずには、決して生きることができないということです。会堂長として律法に忠実であったヤイロの娘も、財産を全部使ったその女性も、助かりたくて多くの医者を頼ったけれど叶わず、ようやくイエス様の力によって救われ、新たな命をいただくことができたでしょう。そのイエス様の力をいただくためには、何が必要でしょうか。それは、信仰、希望、愛だと思います。イエス様だけを信じ、イエス様だけに希望を置き、イエス様だけを愛することでしょう。出血が止まらなかった女性も、娘を失ったヤイロも、そうだったに違いありません。キリスト者に必要なのは、信仰、希望、愛のほかありません。

横浜教区は信仰を伝える力、祈る力、愛を証しする力を育てることを掲げています。その力が足りなかったので、その力を育てることを大事にしてきたかもしれません。信仰は信じるべき方を知り、本気で信じることです。祈りは希望がなければできません。愛することは神様が自分を愛してくださるのを認め、自分もその愛に生きることです。ですから、信仰も祈りも愛も学ぶことが大事です。この三つによって、キリスト者は生きるべきです。使徒パウロも、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と述べました。キリストは、み言葉とご聖体でわたしたちを養い、わたしたちのうちに生きたがっておられます。信仰と希望と愛を強め、イエス様の力だけに生きてまいりましょう。