わたしたちは数えきれないほど多くの情報や知識の時代を過ごしています。そういった情報や知識自体は何の力も持っていませんが、それらが利用されると想像以上の力を発揮します。その力によって、ときには多くの人たちが助けられたり、ときには倒れたり、つまずいたりするわけです。それで、すべての情報や知識については、識別と節度が必要となるのです。そうしなければ、自分も他の人たちも、様々な情報と知識の奴隷となってしまうでしょう。

今日、イエス様は故郷ナザレの人たちから退けられました。彼らは、イエス様の職業、家族関係などにつまずき、イエス様を信じようともしなかったのです。そこでイエス様は、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」とおっしゃいました。故郷の人たちは皆、イエス様の知恵や奇跡の力に驚きましたが、それでも自分たちがイエス様のことをよく知っていると思ったのです。そして、その僅かな情報だけでイエス様を判断し、救い主としてのイエス様を信じることができなかったわけです。その不信仰のために、イエス様はナザレではわずかな病人に手を置いて癒されただけで、そのほかは何も奇跡を行うことができませんでした。天地万物と人間の造り主である神様の独り子でさえ、無力を感じたことでしょう。

でも、その無力感。その無力感があったからこそ、イエス様は最後の最後まで十字架の道を歩まれたのだと思います。その無力さ、弱さを感じたから、イエス様はむしろ、御父である神様にすべてを任せることができたはずです。その弱さについては、今日の第二朗読で、使徒パウロも述べています。パウロは、キリストを知る前には、律法や世の中の知識においても豊かで強かったし、おそらく、経済的にもそうだったと思われます。でも、キリストを知ってからはその全ての豊かさ、強さを失ってしまいました。

しかし、それを全部失ったからこそ、パウロはむしろ、キリスト・イエス様に素直に従う人となったのです。また、以前自分が知っていた様々な律法や世の中の情報、知識についても、もっと豊かで完全になりました。それは、パウロ自身の力ではなく、イエス・キリストの霊、愛の聖霊による豊かさ、完全さに違いありません。こうして、パウロはイエス様の弱さに倣い、すべてを神様に任せて、いたるところで慈しみと憐れみと愛の福音を宣べ伝えました。以前は、イエス様と福音を迫害したパウロでしたが、その福音を通して、罪と死の影にある多くの人たちを、神様のもとに立ち返らせることができたのです。

今日、イエス様はご自分の故郷の人たちの不信仰の的となられました。その不信仰は、自分たちが知っていることだけを信じ、それ以外のものは偽りがあるという考えから生じたものでしょう。しかし、イエス様の内には、偽りではなく新たな真実があったのです。人々は自分たちの知っていることと異なったその真実を偽りだと思いましたが、実は、そうではありませんでした。イエス様の内には、慈しみと憐れみに満ちた愛の神様がおられたのです。

その神様を信じたわずかな人たちが、今日の福音に登場しています。彼らは、イエス様を信じ、「イエス様の手」を望んだわずかの病人たちでした。彼らは、自分たちが知っていたイエス様ではなく、その人間的な姿をはるかに超える神様を、イエス様に見つけたに違いありません。そして、その神様についての真の信仰を持つことができたはずです。きっと、イエス様は喜んでその人たちに手を置いてくださったでしょう。知識や情報があふれる「洪水時代」とも言われる今の時代、信者の皆さんがただ、神様にだけ耳を傾け、その神様への信仰を強めることができるよう、お祈りいたします。