今日の福音で、イエス様は福音を宣べ伝えるために、12人の弟子たちを派遣されました。その際、イエス様は汚れた霊に対する権能を授けましたが、一方、その旅路について厳しく指示されました。杖一本の他には、パンも、袋も、金も持ってはいけないと命じられたのです。しかも、下着は二枚着てはならないとも指示されました。それは、旅に臨む弟子たちにとって、どれほどひどい指示だったでしょうか。きっと、弟子たちは茫然となったに違いありません。

しかし、それは、弟子たちが自分のために旅しないようにするための指示でした。言い換えれば、イエス様はその厳しい指示を通して、これから彼らは、神様と福音のための旅に臨むのだということを、はっきりと示されたのです。ある意味、この厳しい指示は、その福音宣教の旅が、もはや、彼らの旅でなく、イエス様ご自身の旅であることを表している気がします。イエス様は、弟子たちのそのみすぼらしくて貧しい旅行を共にし、ご自身が共に働かれることを示されたでしょう。そう考えたら、この酷い指示は、むしろ、「恐れるな。心配するな。勇気を出しなさい。わたしが共にいる。」という、慰めと励ましの指示だったのです。

その温かい御心は、彼らに許された唯一のことからも、ある程度感じられます。それは、「履物は履くように」ということでした。なぜ、これがイエス様の慰めと励ましのしるしとなるでしょうか。まるで、「歩きなさい。そしてまた、歩きなさい。」という風に聞こえるでしょう。しかし、これはイエス様ご自身の旅で、彼らが泊まる宿は、イエス様が用意してくださるはずです。弟子たちは、ただ、「どこでも、ある家に入る」まで歩き続けるだけで十分だったのです。でも、その貧しい旅路の中で彼らは、イエス様がすべてを導いてくださることと、そのイエス様に自分たちを任せることの大事さを悟ったと思います。

さて、イエス様は12人の弟子たちを二人ずつ組みにして遣わされました。どういう風に決められたでしょうか。くじ引きだったでしょうか。あるいは、弟子たちの打ち合わせの結果をイエス様が認められたでしょうか。そうではないと思います。あくまでも、イエス様ご自身の決定だったでしょう。その結果を聞いた弟子たちは、「あの、わたしはその人より、あの人と行きたいですが。」とか、「わたしはこの人より、あの人だったらもっとうまくできると思いますが。」とか、「この人とは絶対に旅に行きたくありません。」などの申し出をしたかもしれません。信者の皆さんだったら、どの使徒と一緒に旅したいでしょうか。

イエス様はただ、二人から始まる共同体のありさまを示したかったと思います。弟子たちはそれぞれ自分の考えを言いたかったかもしれませんが、多分、できなかったはずです。イエス様がそうなさったから、それに従うほかなかったでしょう。でも、イエス様が望まれたのは、誰と一緒に行くとしても、その道は、二人だけの道ではなく、イエス様も共にする道でした。彼らが互いに話し合い、励まし合い、赦し合い、理解し合い、愛し合い、受け入れ合い、支え合うその道の中で、イエス様は共におられるでしょう。信仰者の道も同様です。喜びもありますが、時には、悩みも憂いも、苦しみも涙も、恨みも憎しみも、妬みも悲しみもある道です。しかし、どんな状況の中でも、みんなが自分だけでなく共に歩むなら、イエス様も共に歩んでくださるはずでしょう。その時、取るに足りないわたしたちはイエス様に祝福され、豊かな実を結ぶことができると思います。このミサの中で、そういう意向を抱いて、お祈りいたします。