今日、マリアはエリサベトのところへ向かいました。その時のマリアの心には何があったでしょうか。今日の福音は、「そのころ、マリアは出かけて」という言葉から始まります。この箇所を直訳すると、「マリアは立ち上がって」という風になります。ガブリエルの話に驚いたマリアは少し落ち着く暇も取らずに、立ち上がりました。それは、身ごもっていた高齢のエリサベトを助け、支えるためだったでしょう。マリアは自分の事だけを考えていませんでした。むしろ、救い主の母親らしく、エリサベトとすべてを共にするために立ち上がったのです。その「立ち上がる」という行動について、フランシスコ教皇は、「上を仰ぎ、目を神様のおられる所に向ける」という風に説明しています。信仰者はいつも神様に向かって立ち上がらなければなりません。その神様のみ心を調べ、また、神様により頼むためです。そして自分に捕らわれず、むしろ、神様の道具として自分を神様に任せ、そのみ旨に従って働くものなのです。

続いて、マリアは急ぎます。まるで、自分の決心が変わる暇も与えないかのように見えます。確かにマリアは、自分が神様の導きから逸れるかもしれないことを恐れていたでしょう。「おとめなのに身ごもっていることが、親戚のところにまで知られることになるかも。これからどうしましょう。」複雑な心で、マリアも悩んでいたに違いありません。でも、マリアはそんな悩みに躓かないように急ぎました。弱い人間だから、色々なことで良い志しが揺さぶられることもあるでしょう。せっかく整えた心が、様々な仕事や活動のために乱れてしまうこともあります。それらに躓かないよう、信仰者は気を引き締めて、真っ直ぐに神様へと急ぐべきです。

マリアは山里に向かい、ユダの町に行きます。山里の道はどれほど危うかったでしょう。でも、マリアはその山道を歩き抜きます。マリアはよくエバと比べられます。エバはエデンの園で神様に背いて罪を犯し、すべての罪人の母親となって園から追い払われたわけです。しかし、マリアは今日、山里に向かいます。そこにはどんな人たちがいたでしょうか。エリサベトと彼女の胎内の子、ヨハネでしょう。彼らは、エデンの園から追い払われたけれども、神様を慕い、その園の入り口に集まって、神様の慈しみと憐れみを求めている人たちのしるしです。マリアはイエス様と共に、その人たちのところに来たわけです。信仰者は、マリアのように、いつどこでもイエス様と共に、イエス様の救いを運び、それを伝える人とならなければなりません。

 マリアは自分の方から先にエリサベトに挨拶します。それを聞いたエリサベトは、歌うように挨拶します。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」自分よりはるかに若いおとめに、エリサベトは最も丁寧に挨拶しました。自分の胎内の子ヨハネも神様に従う人となるでしょう。しかし、そのヨハネさえ、履物に触れられないほど偉大な方の母親。その母親の神様への信仰と従順、謙遜と愛。エリサベトはそれを素直に認めたわけです。信仰者は何によって尊重されるべきでしょうか。その神様への信仰と従順、謙遜と愛なのです。そのほかにはありません。

 もうすぐ主の降誕です。みんなでイエス様の馬小屋に向かいましょう。その愛の赤ちゃんにふさわしい贈り物として、信仰と従順、謙遜と愛を準備して、一緒に参りましょう。