今日はイエス、マリア、ヨセフの聖家族の祝日です。神様はご自分の独り子の母親としてマリアを、また、その二人の保護者としてヨセフを選ばれました。その聖なる選択は、二人の信仰と従順の結果だと言えますが、ここには特別な御心が示されている気がします。神様はすべてをご自分独りで決め、行うことができる方でしょう。でも、神様は独り子を通した救いの御業を始める時、人間の協力を求められました。そこで、神様は天使ガブリエルを遣わして、二人をお召しになったわけです。その召し出しに対して二人は素直に答え、従いました。その信仰と従順な心。このミサの中で、二俣川カトリック教会の皆様が、結婚の有無にかかわらず、男性の皆様は聖ヨセフに、女性の皆様は聖マリアに倣うことができるよう、お祈りいたします。
さて、マリアとヨセフの信仰と従順は、最初から完全なものではありませんでした。二人の信仰と従順はまだ鍛えられなければならなかったのです。それを完成させてくださったのは、勿論イエス様でしょう。実に、イエス様がおられなかったら、いかに優れた信仰と従順を持っていたとしても、二人はそれらの聖徳を完成できなかったはずです。今日の福音においても、イエス様はマリアとヨセフの聖徳を育んでくださったことがわかるでしょう。
今日の福音で、イエス様は両親と一緒にエルサレムの神殿に行かれました。それは毎年のことで、ヨセフとマリアは過越し祭にイエス様を連れて行っていたそうです。ユダヤ人において、それはとても大事な義務だったでしょう。しかし、長い年月を重ねながら、その大事な義務は慣例的な訪問となってしまったとも言えます。マリアもヨセフもそうだったかもしれません。それで、両親はエルサレムに残ったイエス様を見失ったのではないでしょうか。しかも、そこは神殿だったでしょう。三日後、両親はイエス様をその神殿で見つけましたが、その時、イエス様はそこで何をしておられたでしょうか。何と、学者たちの真ん中に座って、彼らと話し合っておられたのです。その姿を見て両親は驚き、マリアはイエス様を責めるかのように声を掛けたわけです。しかしイエス様は、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だと言うことを、知らなかったのですか。」とおっしゃったでしょう。
この出来事は何を示しているでしょうか。イエス様は神様の神殿である教会で、わたしたちが先ず何をすべきかを示してくださいます。それは、み言葉を聞き、学び、分かち合うこと、み言葉からすべてを始めることなのです。イエス様ご自身も、学者たちと神様のみ言葉について話し合っておられたに違いありません。そして、イエス様ご自身がご聖体の形でおられる教会で、そのイエス様に出会うことです。どこにでもおられる神様ですが、先ず、教会でイエス様に正しく出会うこと、正しく交わる、正しく親しい絆を築くことを学ぶことが大事です。「どうしてわたしを捜したのですか。」これはまるで、「あなたがたが考えている所ではなく、実際にわたしがいる所に、先ず来なさい」と言う風に聞こえます。「自分がいる所にイエス様もいてくださるだろう」と思う前に、先ず、イエス様がおられる所で、み言葉とご聖体、祈りを通してイエス様に正しく出会いましょう。
家庭は小さな教会とも言われます。教会がそういう所であれば、信仰者の家庭もそうなるべきです。聖家族の祝日である今日、二俣川カトリック教会のすべての家庭が、イエス様を中心とした家庭となれるよう、お祈りいたします。