今日は主の公現の祭日です。今日、神様は遠く東の国々から三人の占星術学者たちを、ご自分の独り子のもとへと導かれました。これは、神様の慈しみと憐れみが、どれほど大きく広く深いかを示す出来事です。神様はご自分の救いの計画が、時間と空間を超えてすべての人々に及ぶのを望まれました。それを表すために、今日、神様は三人の博士たちを導かれたわけです。この三人は、今のわたしたち、また、後の世代の信仰者たちのことです。そこで、今日の出来事を考えながら、この三人から信仰者の道を学ぶことがとても大事なことだと言えます。

まず考えたいのは、三人の関心事です。聖書は、彼らが占星術学者であったと語っています。つまり、彼らは空の星を研究する人たちでしょう。でも、ただ星の様々な情報を集め、研究するだけではありませんでした。その三人は空の星から、神様のみ心、神様のみ旨を調べたのです。わたしたちがこの三人から学べることは、そういった魂です。世の中でも、教会の中でも、色々なことがわたしたちの関心を引いています。それらのことに対して、ただ、情報や扱い方、やり方だけを学ぶなら、頭だけが豊かになってしまいます。魂を豊かにしましょう。それらのことから、神様が何を望み、何を示し、また、何をなさろうとしておられるのか。何よりもまずそれを図ることできるよう、常に神様の恵みと導きを祈り求めることが大切です。そして、三人の従順な心を学ぶことも大切です。従順な心とは、神様を疑わず、従う心でしょう。その心を育むためには、自分を捨てることが役に立ちます。神様を疑う前に、揺らぎやすい自分自身を省みながら、神様を信じ、自分を捨て、従順に神様の光の中に導かれましょう。

次に、心をそろえて共に歩みましょうということです。三人の占星術の学者たちは、どんな道でも一緒でした。ただ一緒だっただけではなく、心が一つだったのです。彼らの姿を想像すると、互いに信頼し合い、励まし合い、互いを聞き入れ合う姿が見えるような気がします。希望はそういった姿とともにあるからです。虐められるところ、軽んじられるところ、責められるところ、蔑まれるところ、怒られるところ、指摘されるところでは、希望の姿は消えてしまうでしょう。

三つ目に三人の学者たちの道を考えてみましょう。彼らは自分たちの国から旅を始め、三人そろってその旅を続けました。その道はまさに荒れ野の道だったでしょう。しかも途中で、自分たちを導いてくれた星を見失ってしまったようです。それはヘロデを訪ねた時のことでした。人間は楽な道を歩み、なじんだ居場所にとどまり、そこでの役割に固執してしまったら、その偽りの光に取り込まれてしまいます。でもそこから再び立ち上がって荒れ野の道を歩むなら、真の光である神様の導きに依り頼むしかない自分を取り戻せるのです。博士たちはもう一度立ち上がって荒れ野の道を歩み、馬小屋でイエス様に出会えました。そして希望のうちにまた荒れ野を通って自分たちの国に帰ったでしょう。わたしたちも恐れずに荒れ野の道を愛しましょう。

最後に、三つの贈り物がありました。黄金、乳香、没薬。それぞれ、王であり、祭司であり、預言者であるイエス様のことを示します。ある意味、これらの贈り物は不変的なものであると思います。わたしたちの王はただイエス様だけである事を認める心は、黄金のような贈り物です。自らをささげられたイエス様のように、愛に生きる生活は乳香のような贈り物、そして、神様のみ言葉に耳を傾け従う姿勢は没薬のような贈り物です。二俣川カトリック教会の信者の皆さんが、そういった素敵な贈り物を用意することができるよう、お祈りいたします。