イエス様は弟子たちがご自分と同じ道を歩むことを望んでおられます。そこで、彼らに弟子としての生き方について、色々教えてくださいました。イエス様はそれを、時には優しく、時には厳しく教えられました。また、時には自らの行いで示されました。それは、弟子たちがイエス様のように、立派な道案内人となることをも望まれたからです。イエス様はその望みを込めて、弟子たちを見つめておられます。

「自分の目にある丸太を取り除きなさい。」とおっしゃいます。さもないと、兄弟の目にあるおが屑を責め、それに躓いてしまうからです。その丸太とは、実に自分自身です。人間はその自分の姿に気づかず、傲慢に捕らえられがちなものでしょう。そうなると、相手を責めるばかりで、もはや愛の絆は崩れてしまうのです。イエス様は使徒たちや弟子たちの眼差しが、ご自分のようになることを望まれます。その眼差しは、慈しみと憐れみに満ちておられる御父の眼差しでしょう。イエス様は彼らに温かく語られました。「あなたがたはわたしの眼差しに倣いなさい。」と。「良い木から悪い実が結ばれ、悪い木から良い実が結ばれるのはあり得ない。」イエス様は最後の晩さんの席で次のように言われました。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていないなら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」と。イエス様はご自分に従う人たちが皆、良い木となることを望まれます。そうなるためには、イエス様のみ言葉だけに耳を傾けるべきです。イエス様ご自身も、いつも御父のみ旨に耳を傾けられます。聞きたいことだけを聞き、世の中の意味もないことに耳を傾けたら、悪い実を結ぶばかりか、どんどん悪い木となってしまいます。イエス様のみ言葉を聞くことによって、イエス様につながる良い木となり、更に、豊かに実を結ぶことができます。見聞きしたことは、自分の心の倉に積み重なるわけです。イエス様は弟子たちの心の倉にいつも良いものが入れられ、それについて話すことを望まれます。その良いものとは何でしょうか。それは、イエス様のことでしょう。

しかし、このように学んだ使徒たちや弟子たちは、どうだったでしょうか。イエス様と共に歩きながらも、「誰が一番偉い?」と口論したでしょう。それを聞いておられたイエス様の心はどれほど痛んだでしょうか。復活の後、二人の弟子がエマオに向かいました。イエス様の死の後も、世の中の様子は変わっていません。変わったのは弟子たちだけです。イエス様の死についての責任を互いに責め合ったかもしれません。エマオに向かう二人の口からは、どういう話が交わされたでしょうか。「イエス様が復活されたという話、信じられない。」イエス様が隣で共に歩いておられるにもかかわらず、彼らの目は閉ざされていたでしょう。彼らは目の見えない道案内人となってしまったのです。そんな彼らを、イエス様は再びみ言葉の道へ、更に、パンを分け合う食卓へと導かれます。きっとその食卓で、イエス様は慈しみ深い眼差しで言われたはずです。「互いに愛し合いなさい。」「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」その姿はまさに、最後の晩さんでのイエス様の姿です。彼らの目は開かれます。そして、急いで他の兄弟たちがいるエルサレムに帰り、自分たちの見聞きしたことを告げます。彼らは少しずつ弟子としての道、その生き方を学び始めたでしょう。「イエス様のためなら、貧しい人となってもいい。阿保となってもいい。イエス様のようになれるのであれば。」その弟子たちの希望をわたしたちも望むなら、イエス様は喜んでくださるはずです。それを望みながら、イエス様の弟子として生きてまいりましょう。