わたしは悪魔です。教会の説教は、いつもイエスが主人公で、わたしはそれが不満でした。今日はわたし、悪魔が主人公です。今日はわたしたち悪魔がよく使う、誘惑の三つのスキルを紹介しましょう。これらのスキルは、実はとても伝統的なものですが、何回使っても、愚かな人間は同じスキルに躓いてしまいます。勿論、失敗したケースもあります。今日は、それを深く反省しながら、そのケースを紹介し、これからも悪魔としての力をもっと強めたいと思います。それは二千年前のことです。

その日、わたしは荒れ野で初めてイエスに出会いました。イエスは四十日の間何も食べていなかったので、一目で弱り果てていることが分かりました。容易に誘えると思い、「荒れ野の数えきれない石をパンに変えたらどうだ」と囁いてみました。しかしイエスは、「人はパンだけで生きる者ではない」という聖書の言葉で、わたしの誘惑を断ったのです。わたしはただ飢えているイエスがかわいそうだったので誘ったのに。とにかく、せっかくの誘惑が失敗となったので、悔しかったです。そこで、わたしはイエスを高いところに引き上げて、一瞬のうちにすべての国々を見せてあげました。そして、そのすべてがわたしに任せられたと言ったうえで、「わたしを拝むなら全部お前にあげる」と誘いました。するとイエスは、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という聖書の言葉で、悪魔のわたしのプライドを踏みにじったのです。悔しくてどうしてもイエスに打ち勝ちたくなりました。そこで、悪魔としては口にしたくもない聖書の言葉で、イエスを躓かせようとしました。イエスを神殿の屋根の端に立たせて、「ここから飛び降りたらどうだ」という風に声を掛け、ちなみに、「神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。あなたの足が石に打ちあたることのないように、天使たちは手であなたを支える。」という、聖書の言葉も使いました。しかしイエスは、「あなたの神である主を試してはならない」と言って、わたしの誘惑を退けました。悔しくて悲しかったけど、次の機会を狙いながら、わたしはイエスから立ち去ったわけです。

そんなイエスとの初めての出会いから、わたしは大きなことを悟りました。それは、イエスへの直接的な誘惑はできないということでした。そして、わたしはある先輩の悪魔からアドバイスをもらいました。それは、「イエスを直接的に誘惑することができないなら、その周りの人たちを誘惑すればよい」ということでした。そこである日、イエスが五千人をわずかな食べ物で満腹させたと聞いて、その五千人の心に「ああ、もう一度食べたいな。その奇跡をもう一度見たいな。」という種を蒔きました。どうなるかな。やはり、予想通りだったのです。その群れは、もう一度イエスのところに行ってパンを求めましたが、結局イエスと色々激しく論争したでしょう。イエスはちゃんと色々教えようとしましたが、彼らは、「あなたはただ、わたしたちにパンを与えてくれさえすれば、それでよい。わたしたちのことはわたしたち自らがやるから。神様の御言葉なんて、聞きたくないよ。」と言って、イエスから離れたのです。大成功でした。嬉しかったです。それから、多くの人たちの心に、イエスを王としよう、という種を蒔いてみました。イエスはそれに気づき、山に逃げたりしました。時には、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」という風に、誘惑を退けたでしょう。そして、「とにかく、お前は王なのか。」というピラトの言葉にも躓かなかったのです。でも、多くの人たちの心には、「イエスはもう我々の王ではない、我々のリーダーではない。むしろ彼はわたしたちの敵なのだ。」という思いを持たせることができたわけです。愚かな人たちは、「世の中の権力、財力、名誉、知識、知恵、経験を持つメシア」ではないイエスには、もう魅力を失ったのでしょう。結局、イエスは多くの人の憎しみ、恨みの的となって、十字架につけられたのです。そこでも、わたしは十字架の周りに集まっていた人たちの心に、イエスを試そうとする種を蒔きました。それで十字架上のイエスは嘲られたり罵られたりしたでしょう。「そこから降りて見よ、そうしたら信じるから。あなたがメシアなら、あなたもわたしたちも救ってくれ。」でも、三年前、初めて荒れ野で出会った時、神殿の屋根から飛び降りなかったイエスは、今度も十字架からおりませんでした。十字架上でそのまま死んでしまったのです。なぜでしょう。後でちょっと考えてみました。「アハハ!もしかして、イエスにとって十字架こそが、新しい真の神殿だったかな。そこから自ら降りるなら、その新しい神殿である教会はたてられないと思ったかな。」とにかく、イエスへの誘惑はわたしの大敗でした。しかし、愚かな人間、信仰者たちへの挑みは続けています。意外と簡単です。実に今も多くの人たちが神の言葉を聞き、その心を調べるより、目に見える様々なかたちのパンを求めているでしょう。イエスにとって真の神殿である教会の中でも、イエスの愛の王権は知りながらも、自分たちが頭となることに気づかないケースもあります。或いは自分たちが今、何に仕えるべきかを考えず、自分のことだけに仕えている人も多いです。また、神と教会への不信に躓いて、自ら離れていく人も多いでしょう。これは、すべてわたしの御業です。ハハハ!

この悪魔の話、信者の皆さんはどう思われますか。悪魔の伝統的なスキル三つありました。まず、「神様の御言葉より、様々な形のパンを求めさせる」、次に、「神様ではなく、自分なりのこと、自分の事だけに仕えさせる」、最後に、「色々な十字架から飛び降りさせ、教会から離れさせる」ということでしょう。その悪魔の誘惑は、常に、わたしたちのそばにあります。四旬節は、荒れ野でのイエス様への誘惑を思い起こしながら、神様に立ち帰る道を整える期間なのです。この四旬節の間、わたしたちが荒れ野でのイエス様のことを考えながら回心するなら、復活の喜びは、三十倍、六十倍、百倍となるでしょう。しばらくの間黙想しましょう。