今日もイエス様は三人の弟子たちと一緒に山に登られます。祈るためです。イエス様の働きはいつも祈りから始まります。祈りは御父との出会い。イエス様はその御父との出会いに弟子たちを招き、彼らにも祈ることを教えたかったのでしょう。しかし、彼らは疲れていたでしょうか、益々眠気が押し寄せてたまらないようです。そんなに疲れていたのに山登りまで。じっとこらえている姿がかわいそうです。そんな弟子たちの前で、イエス様は祈りに夢中になっておられます。そして、その顔は変わり、衣服は真っ白になっています。それはどういうことでしょうか。まさに、イエス様は「天地創造の前から御父と共におられる姿」をありのままに見せてくださったのです。そこにモーセとエリヤが現れます。モーセは神様との契約と律法を表し、エリヤはすべての預言を表します。つまり、この二人は旧約時代を象徴しているわけです。もうすでに神様のもとにいる二人が、イエス様の前に現れたのはどういうわけでしょうか。
イエス様は神様の独り子で、自ら輝く真の光でしょう。「神様よりの神様、光よりの光、まことの神様よりのまことの神様」です。でも、モーセとエリヤはそうではありません。二人は神様から栄光をいただいているけれども、神様の光に照らされなければ、自ら輝くことはできません。二人はイエス様の光に照らされて、栄光に包まれた姿を見せることができるわけです。その昔から、二人は神様の完全な救いをどれほど待ちに待っていたでしょう。栄光に輝くイエス様の前に現れた二人は、イエス様がエルサレムで成し遂げようとされることについて語り合っています。自分たちが熱望していた神様の救いについてのことなのです。それを語り合っていたイエス様とモーセ、エリヤの姿は、何と美しいでしょう。しかしその時、ペトロは口をはさみます。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」彼は自分でも何を言っているのか分かっていませんが、言っているうちに周りの光景が変わっていることに気づきます。雲が彼らを覆い始め、その雲の中で、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」という声が聞こえてきます。そして、周りが静かになり、落ち着いていて見るとイエス様だけがおられます。一体何が起こったでしょう。
ペトロと仲間たちはその出来事の意味が分からなかったので、誰にも話せなかったようです。その出来事からどれほど時間が経ったでしょうか。イエス様はまた山に登られました。今度はただ一人でした。その山の上で、イエス様は十字架に釘づけられて亡くなられました。あの山の上で弟子たちに見せられたイエス様の栄光の顔は、血と汗にまみれていて、真っ白だった衣服はすべて奪われました。そして、イエス様は冷たい石のお墓に葬られました。そのイエス様の死によって、弟子たちはどれほど苦しんだでしょうか。自分たちを自ら責めたり、イエス様にかけた希望を諦めたりしたかもしれません。ペトロはもっと苦しかったでしょう。栄光に輝いたイエス様とモーセ、エリヤの姿に陶酔していた彼は、仮小屋どころか、そのお墓にも共にいなかったから。しかし、イエス様はその弱くて取るに足りなかったペトロの上に教会を建てられ、全世界にご自分の教会を広げておられます。そして、その教会を通して、ご自分の死と復活による救いの御業が続けられるようにしてくださいます。まさに、イエス様が「選ばれたのは」、十字架の死と復活による救い、モーセとエリヤが待ち望んでいたその救いのいけにえとなるためでした。
今日、ペトロは仮小屋にイエス様をとどまらせようとしました。しかし、イエス様にはもう一回の山登り、つまり、ゴルゴタへの山登りが残っていたでしょう。その山道に、イエス様は今日もわたしたちを招いておられます。それはご自身と共に祈ること、その祈りの賜物である聖霊の力で働くことを学ばせるためです。イエス様と共に祈る人、聖霊と共に働く人は、疲れることがありません。自分自身の仮小屋にとどまらず、絶え間なく新たになるのです。わたしたちが選ばれたのはそのためですし、二俣川丘を登るのは祈るため、また、聖霊を通してイエス様の愛による救いの道具となって、イエス様と共に働くためです。そういう恵みが与えられるよう、お祈りいたします。