あるぶどう園の持ち主がいます。彼は自分のぶどう園を愛しています。彼はぶどうが実るときだけでなく、ほぼ毎日ぶどう園にやって来て、ぶどうの木がぐんぐん育つことを楽しみます。ぶどう園は彼の誇りです。そんなある日、彼は自分のぶどう園にいちじくの木を植えます。それは、自分のぶどう園をもっと豊かにするためです。いちじくの木が育つとともに、どんどん木陰も広くなるでしょう。その木陰でじっくりと一休みを取ったり、いちじくの実を眺めたり…想像することだけでも楽しくて幸せです。

しかし、なかなか実ができず、葉っぱだけが茂るばかりです。ぶどう園の主人は失望し始めます。それもそのはずですが、彼はいちじくの木が実を結ぶのを待ちながら、ほぼ毎日、ぶどう園にやって来たのです。しかも、もう三年もの間でした。でも、いちじくの木は実を結ぶどころか、木陰だけが広くなっています。もう楽しみどころか、ぶどう園を塞いでしまうかもという気がします。そこで、園丁に声を掛けます。「この何の役にも立たないイチジクの木を切り倒せ」と。ところが、園丁は主人に提案します。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」と。果たしてどうなるでしょうか。

イエス様はピラトによるとても恐ろしい事件を耳にされました。ピラトが多くのガリラヤ人たちを殺し、その血を彼らのいけにえに混ぜたということです。それを聞いたイエス様は、「そのガリラヤ人たちが他のガリラヤ人より罪深かったのでそうなったではない」と言う風におっしゃいます。そして、「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言われます。また、昔のシロアムの塔の事件も思い起こさせながら、もう一度、「悔い改めなければ、皆同じように滅びる」とおっしゃいます。これはまるで、罪深いから滅びるではなく、悔い改めないから滅びると言う風に聞こえます。いずれにしても、殺された人たち自らに、自分の死の責任があるかのように聞こえるでしょう。

実は、イエス様の今日のみ言葉は悔い改めについてのことです。「罪を犯したとしても、真心から悔い改めることによって、滅びを免れることができる」ということです。悔い改めることは御父が望まれることで、イエス様は「罪びとを滅ぼすためでなく、悔い改めさせるために来られたでしょう。」それは、まさに今日の例え話の園丁のような役目です。まことの園丁であるイエス様はどうなさるでしょうか。例え話の園丁は、実を結ばないいちじくの木の周りを掘ります。優しく丁寧に掘りますが、どこをどれほど掘るか園丁はしっかりと知っています。イエス様もみ言葉で、頑なで頑固な心を優しく、しかし、正確に掘ってくださいます。そして、園丁が肥やしをやるように、イエス様はご聖体を通して、わたしたちの心に愛を注いでくださいます。そのイエス様の優しい、でも、しっかりとした手入れを素直に受ける人は、なんと幸いでしょう。それで、石のようなわたしたちの心は生き生きとした心となります。それは、ぶどう園の主人である御父の喜びでしょう。悔い改める必要のない九十九人より、一人の罪びとの悔い改めを、天の御父は喜んでくださるからです。

四旬節は悔い改めへのお招きの時です。わたしたちの心にある悔い改めの木を振り返ってみましょう。わたしたちのために、自らご自分の御体に御血を混ぜられたイエス様、わたしたちの悔い改めを望み、十字架という貴い塔を建てられたイエス様に立ち帰りましょう。きっと、イエス様の新しい命に与り、御父の喜びとなるはずです。恵み豊かな四旬節となりますように。