わたしは今、帰ります。恐れおののきながら、父の家に向かいます。服は破れ、履物もどこかで失いました。素足で歩きながら考えました。「これからわたしを待っているのは、何であろうか。きっと、厳しい裁きと咎めに違いない。嘲りだろうか。咎めと責めばかりだろうか。」それでも、父のもとに帰ります。家から離れ立ち去ったときと同じ道ですが、その時のように遠い感じはありません。それは、ただ同じ道だからではありません。裁きが待っているのが分かっているからです。途中で、何度も倒れ込むように、道端にしゃがんだりしました。「家に帰るのを諦めた方がいいかも。父はわたしを受け入れてくれないはずだ」と思い込んだからです。そう迷いながらも、歩き続けます。今、あそこの峠さえ超えると、夢にまでみたあの懐かしい父の家です。その峠の頂に立って見てみると、家はもう目に入ってきます。涙があふれ出始めます。もう何も見えないほど、涙が流れます。もう歩く力もありません。わたしは倒れてしまいます。懐かしい家に着いたからではありません。父の顔を見る勇気がないからです。その時、そのまま泣いているわたしを抱き、立たせてくれた人がいます。「お父さん」!
お父さんは素足です。下の子が家を出てしまってから、お父さんは毎日、あの峠だけを見つめていました。「今日も帰ってこないなあ。でも、明日には必ず帰ってくるはずだ。」お父さんはずっとそう思っていました。そしてついに今、下の子の姿が目に入ってきます。見分けられないほど、みすぼらしく惨めな姿です。その姿を見るや否や、お父さんは家から走り出ます。履物を履くのも忘れて足は埃だらけですが、その顔は、喜びと憐れみの涙にまみれています。そして、地に身をかがめて泣いている息子の前にひざまずき、自分も泣きながら下の子を抱き立たせます。「息子よ」抱き合っている二人は素足です。その時、お父さんの目には悔い改めている息子の姿が、息子の目には赦してくださるお父さんの姿が映っています。
兄は畑仕事から家に帰ります。疲れを癒そうと急ぎ足で家に向かいます。ところが家に近づけば近づくほど、音楽や踊りのざわめきがどんどん大きく聞こえます。何があったのでしょうか。僕に聞くと、弟が無事に帰って来たので、お父さんが肥えた子牛を屠ったということです。それを聞いて、兄は家に入りたくなくなり、外に座り込みます。色々な不満が口をついて出ます。それに気づいたのか、弟を迎えに家から走り出たお父さんは、今度も家から出て、兄の前に跪きます。そして、兄を宥めようとしますが、聞こうともしません。ついにお父さんと弟に対して不満を言い出します。まるでお父さんとの縁を切ろうとするかのように言い放ちます。「わたしは僕のようにお父さんに仕えてきました。でも、お父さんはわたしに何もしてくれませんでした。それなのに、あなたのあの子、あのわがままで身勝手な子が帰ってくると、豪華な宴会を開かれるとは。」兄の目には、絶対に会いたくない弟と、けちで愚かなお父さんの姿が映っていたでしょう。兄の目には、実に大きな丸太があったのです。彼は、咎められるところのないほど正しかったでしょう。でも、悔い改めも赦しも知らない憐れな人だったのです。
僕と言えばイエス様でしょう。イエス様は、僕となるにも足りないわたしたちのために、自ら御父の僕となられました。そして、御父のみ旨を果たして命をささげ、その代わりに罪深いわたしたちを御父の子供とされました。皆、無償で贖われ、その喜びの宴会に招かれているのです。御父の目には悔い改める人があり、その人の目には慈しみ深い御父がおられます。その姿が見えるなら、このミサはまさに永遠の宴会となるでしょう。この宴会を相応しく与るためには、慈しみ深い御父のもとに立ち返ることが大事です。ちなみに、教会にはこの永遠の宴であるミサより優先的なものは一切ありません。なぜなら、ミサは御父の子供たちだけの特権的な食卓だからです。それを考えたら、ミサには与らないながらも、教会の別の集いに出席したり、その時間に他のことをやったりするのは、御父の子供という身分を自ら捨てることでしょう。わたしたちが皆、神様のもと向かって足を速め、その宴に与ることができますように。