今日もイエス様は神殿においでになります。前日はオリーブ山でお泊りになりました。その山はエルサレムの東の方にあります。朝早く、イエス様は東のオリーブ山から来られたのです。「救いは日の昇るところから来る」からです。まさにイエス様は救いの光ですから。イエス様が神殿におられると聞いたでしょうか、民衆は皆、教えを聞くためにイエス様のもとに集まります。朝早く、救いの光として来られたイエス様と、そこに共にいる人々の顔は明るく輝いているように見えます。

「そこへ」、その明るい所へ、暗闇が激しい叫び声と共に押し寄せてきます。「殺せ、殺せ」イエス様の穏やかな話し声とは真逆です。石を手に持っている一団の律法学者たちとファリサイ派の人々の群れが現れます。群れの一番前には一人の女性が恐れおののきながら、押し出されるように歩いてきています。群れはイエス様の座っておられるところまで来て、その女性を自分たちの前に立たせます。こうして女性はイエス様を囲んだ民衆と、自分を引っ張って来た群れとの間に、立たされることになります。そして、激しく叫ぶ声がします。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」ついに、真の光と暗闇との戦いが始まろうとする気配がします。

その訴えでイエス様は話を止め、黙って地面に何かを書き始められます。みんなの目と耳は、イエス様の口に注がれます。その沈黙の時間はどれほど長かったでしょう。律法学者たちやファリサイ派の人々の群れは、もうこれ以上は待てないかのようにしつこく問い続けます。そこで、イエス様は身を起こして言われます。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そして、イエス様はまた身をかがめて、地面に何かを書き続けられます。その答えで、すべての人の動きは止まります。まるで、時間が止まったかのようです。そのまま沈黙が流れている間、一つ、また一つ、石が落ちる音がし始め、どんどん大きくなります。年長者から始まって、みんな石を落としてそこから立ち去り、結局イエス様とその女性だけが残っています。イエス様から話を聞こうとして集まった人たちもいません。自分たちの命とも言える大事な律法、その律法に沿って行われる裁きが無意味なものとなり、みんなそこにいるわけにはいかなくなったわけです。光のところにいたが、暗闇と一緒に立ち去る民衆の後ろ姿が、暗く悲しいです。

その緊迫の時間、イエス様の頭には何が浮かんだでしょう。実は、イエス様は試されていたのでしょう。その女性の死刑に賛成したらローマの法律に背くことになり、逆に反対したら律法に背くことになります。律法学者たちやファリサイ派の人たちは、なんと巧みな罠を用意したのでしょう。イエス様を殺したいほど憎んでいたのでしょうか。訴えられた女性の姿から、イエス様は間もなくご自身もそう扱われるのを前もって知っておられた気がします。彼らは「こういう女、つまり、この姦通の罪を犯した女」と訴えたでしょう。でも、イエス様は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われました。神様であるイエス様にとって、殺すべき罪とそうではない罪などの区別はありません。罪を、こういう罪、ああいう罪という風に分けて裁くのは、意味がありません。実にすべての罪は、自分の命をかけて償うべきでしょう。イエス様は誰も訴えませんでした。ただ「先ず、自らを省みなさい」という風に言われたわけです。人の群れが石を落として去って行ったことに気づかれたイエス様の心は、どれほど痛んだでしょう。「頑なな人々。軽い塵で造られた人間の心は、どうしてこれほど重く頑なになったのか。」ご自分を、誰が、どんな言葉で訴えるか、神様であるイエス様は既に知っておられたでしょう。けれども一言も弁解なさらず、その訴えを受け止めました。そのために来られたからでしょう。訴えられて十字架上で殺され、その死を通して罪の赦しによる救いをもたらすためでした。その深い愛とは…

イエス様と死の間際に救われた女性の上に復活の光が放たれます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」その光がわたしたちをも照らしてくれますように。自ら裁かれることを望まれたイエス様の愛が、わたしたちの上にありますように。