イエス様は苦しそうな足取りで歩いておられます。その肩には重い十字架が背負わされています。全身に打たれた鞭の跡から血が染み出ています。このままでは倒れて死にそうです。しかし、必死に十字架を引きずって、よろめきながらも歩いておられます。その十字架の道のりには、限りない悲しみと苦しみの涙を流していた母マリアがいました。兵士たちによって、無理やりイエス様の十字架を担がされたクレネのシモンもいました。血と汗にまみれたイエス様に布を渡したベロニカもいました。嘆き悲しみながらイエス様についてきたエルサレムの婦人たちもいました。母マリアを支えながらイエス様についてきた「愛する弟子」もいました。さらに、誰がいたでしょう。

そこにはこんな人たちがいたかもしれません。ベツレヘムのその不思議な夜、イエス様の誕生の知らせを聞いた人々。ヨルダン川でヨハネからの洗礼を待ちながら、天からの声を聞き、鳩の姿の聖霊を目撃した人々。ガリラヤ湖のほとりで、イエス様がペトロの舟に乗って教えておられた時、その穏やかな声を耳にした人々。カナの婚宴で、水がぶどう酒に変わったとき、その新しいぶどう酒を味わった人々。ガリラヤの風薫る丘で、「貧しい人々は幸いである」で始まる、天の国の生き方を学んだ人々。徴税人であったマタイの家で、イエス様と一緒に食事をした罪びとたち。二匹の魚と五つのパンで五千人が満腹した時、その平穏な芝生でのひとときを共にした人々。イエス様によって生き返ったヤイロの娘の村人たち。死んでいたラザロが墓から出てきたとき、その驚くべき現場にいた人々。徴税人の頭ザアカイの家での食事会で、イエス様と一緒にいた人々や、それを非難していた人々。神殿にこっそり入って銅貨二枚をささげたやもめ。そのやもめより先に神殿に来て、にぎやかに語り合いながら多くの金を入れた金持ちたち。罪の現場で捕えられ厳しく裁かれていたが、イエス様によって救われた人々。そして、イエス様が子ロバに乗ってエルサレムに向かった時、自分の服をその道に敷いたり、枝を振ったりしながら大声で賛美の歌を歌った人々。

また、こんな人たちがいたかもしれません。一匹の羊を見失って悲しんでいたが、やっとそれを見つけて喜ぶ人。一デナリオンの銀貨を失って悲しんでいたが、ようやくそれを見つけて喜ぶ人。父親から財産を分け貰ったが、それを無駄遣いしていた人。そして、そのような息子が帰ってくるのをひたすら待っていた人。また、そのような兄弟をどうしても赦せなかった人。王様に返せないほどの多くの借りがある人。仲間に百デナリオンの借りがある人。道で強盗に遭い、持ち物を全部奪われ、更に半殺しされた人。その人を助け、夜通し看病していた異邦人、神殿の後ろに立って胸を打ちながら、神様に赦しを求めた徴税人のような人。その徴税人を非難しながら、堂々と神様を賛美したファリサイ派のような人。

そして、イエス様のその十字架の道行きには、他の人たちもいます。自分たちなりの知恵と知識にうぬぼれ、律法のような古い規則や規約に拘れていたが、イエス様に侮辱されたファリサイ派の人々や律法学者たち、また、サドカイ派の人々。自分たちの立場に危機感を覚えた祭司長たちや民の長老たち。世の中の権力者の仲間たち。あらゆる形で、イエス様に反感を持っている人たち。様々な言葉でイエス様を訴えた人たち。イエス様を殺そうとして、民をそそのかしていた人たち。

そこにいる色々な人々は、これからしばらくイエス様を裏切ります。「何気なく、或いはそそのかされて、或いは本気で悪意を抱いて」です。イエス様はその人々の目の前を歩いています。十字架を背負ったままです。しかし、それこそがイエス様の道です。その人たちの前で、十字架上で手を広げ、その人たちを神様のふところに迎え入れるためです。それゆえに、イエス様は苦しみながらも、必死に歩いておられるのです。すべての人の贖い、救い、赦しのためでしょう。復活の光を照らすためです。わたしたちの目の前には、自分とどんなかかわりのあるイエス様が歩いておられるでしょうか。