先日の2月3日、議政府(ウィジョンブ)教区で司祭・助祭叙階式が行われ、新しい司祭7人と助祭5人が誕生しました。本来は大きな式場で行われるはずでしたが、今年は新型コロナウイルス感染症のため、司教座で行われました。参加者の人数も制限され、対象者の父母や出身教会の司祭、また、推薦した司祭しか与れなかったので、ちょっと寂しい気がしました。でも、この全人類的な苦しみの中で行われた司教座での叙階式でしたから、新司祭や新助祭の心は特別だったと思います。どうか、これからの彼らの人生の道が神様の御心に適う道となるように、また、その道を忠実に歩むことができるようにと祈るばかりです。

考えてみたら、司祭の道は一本のロープの上を渡るようなものではという気がします。私自身も「これからはもっと誠実に生きて行こう。」と思いながらも、色々な誘惑に陥ったり、様々な過ちや罪を犯したりしています。幸いに来日してから、「これからは新たになろう。」と決心し努力していますが、それでも依然として変わっていない自分を見つける場合が多いです。日本での宣教活動のきっかけは神学生のとき読んだ「沈黙」という小説でしたが、司祭の少ない日本の教会や信者さんたちに、足りないけれども自分が何か役立つものとなりたいという思いで、わたしは来日しました。勿論、その為には韓国での安楽な生活を諦めねばなりませんでしたが、むしろ、その放棄によって、わたしは新たになれるという思いもありました。なのに、まだまだ、昔の自分に留まろうとしているのは、何と愚かでしょう。

先週の主日の福音で、会堂で汚れた霊に取りつかれた人を解放してくださったイエス様は、今日の福音では、シモンとアンデレの家を訪ねられました。その時、シモンのしゅうとめは酷い熱病で苦しんでいたので、イエス様はまず彼女の手を取ってその病気を治してくださいました。そのイエス様の訪問には4人の弟子たちも同行しましたが、きっと他の人たちもそこにいたはずです。彼らはイエス様がペトロの姑を癒されたのを見て、夕方に自分たちの周りのあらゆる病人や悪霊に取りつかれた人々を、ペトロの家のイエス様のもとに連れてきたわけです。イエス様はその病人たちをも治され、また、悪霊どもを追い出されましたが、悪霊はイエス様を知っていたので、物を言うことをお許しになりませんでした。そして翌日の朝早く起きて、人里離れた所で祈っておられたイエス様は、ご自分を捜し回っていた弟子たちを連れてガリラヤ中の他の会堂を訪れ、そこでも宣教されました。その時、弟子たちはイエス様に、人々が探していると話しましたが、イエス様は他の町や村での「宣教のために出て来た。」とはっきりおっしゃいました。こうして、イエス様と弟子たちとの本格的な宣教の旅路は始まったのです。

わたしは福音の全体的な風景を頭の中で描きながら、いくつかの場面を黙想してみました。先ずはペトロとアンデレの家のことです。この兄弟は自分たちの船や網を全部捨て、イエス様に従い、突然失業者になったでしょう。しかも、アンデレはすでに結婚していた兄の家に住んでいて、そこにはペトロの姑も住んでいたわけです。何と貧しくて悲惨な風景でしょう。恐らく、この兄弟のことは近所の人々の話題となったに違いありません。その暗くて沈鬱な家で、シモンの姑は熱病まで患っていました。しかし、イエス様が来られてから、雰囲気は一気に反転したはずです。ペトロの姑のことを耳にした多くの人々がその家を訪ね、イエス様によって皆元気になったり、悪霊から自由になったりして、貧しさと病の闇と沈黙に包まれていたペトロの家は、喜びのにぎやかな声と笑い声で溢れるようになったでしょう。

その波乱に満ちた一夜が去って、新しい希望の中で一日が始まりましたが、イエス様の姿は見あたりませんでした。きっと人々はみな慌てて、イエス様の行方を調べたに違いありません。そして、ようやく弟子たちはイエス様を見つけましたが、その時イエス様から聞いた話は彼らにとって、まるで、寝耳に水のようなことだったと思います。なぜなら、当時は誰かの弟子になったら、その先生の所に通いながら色んな教えを学ぶことが普通でしたが、イエス様には定住の場所がなかったからです。言い換えれば、イエス様が教える現場とは、イエス様ご自身がいらっしゃる所で、それは神様の積極的な働きかけを現し、また、人間の苦しみを共に負われる神様の姿を表すことでもあります。確かに、イエス様の学校は人間の涙がある所、苦しみと悲しみがある所であって、そこでイエス様は御言葉と御業を通して、彼らと共におられる神様を示してくださいました。そのようなイエス様の姿から、弟子たちは少しずつ、神様が憐れまれるすべての人に仕える人となる道を学び、人を取る漁師として一人前となったはずです。

きょうの第1朗読で、自分の全財産と子供たちを失ったヨブは、ため息が混ざったような言葉で神様に祈りました。一見、彼の祈りは人間の虚しさを語り、それと共に神様への恨みを訴えるようですが、実は、ヨブは最後まで神様に背きませんでした。むしろ、自分には神様だけがおられることを、神様に強く申し上げたのです。神様はヨブを通してご自分が人間の苦しみと悲しみを共にしておられる方であることと、その苦痛のさなかでも人がご自分を仰ぎ見、また、ご自分により頼むことを望んでおられるのを教えられたわけです。イエス様が神様のその姿を示されたのは言うまでもないことでしょう。イエス様は世の中で最も弱い人たち、また、神様の他は希望がないことを認める人たちを訪れ、彼らに慰めと勇気、また、癒しと命を与えてくださいました。そして、そのイエス様の働きは弟子たちにも受け継がれ、彼らも同じく、すべての人の救いのために働いたわけです。それは今日の第2朗読の使徒パウロの手紙からもよく分かります。パウロは世の中のことにおいては豊かに恵まれた人でしたが、イエス様と出会い、また、その愛の福音を学んでからは、その全てを捨てました。そして、その福音を告げ知らせる人となって、ひたすら人々の救いのために祈ったり、働いたりしたのです。彼は自分にそういう任務が任せられたこと自体が神様からの報酬だと告白し、感謝と喜びの中でその務めを全うしたのです。

神様に自分を任せ、イエス様に従うのは司祭だけでなく、信仰のあるすべての人の大事な務めであり、人を愛すること、特に、もっとも弱い人の友となるのも軽んじてはいけない務めなのです。人種や国籍、偏見と差別を超えて、すべての人のために祈りつつ、働くのは私たち信仰のある人たちの当然な務めだと思います。それを心に留めながら、神様が私たちをその道に導いてくださるよう、お祈りいたします。

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第29回「世界病者の日」の教皇メッセージ(21.11.1)はこちら =>https://www.cbcj.catholic.jp/2021/01/29/22035/

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