今年も典礼暦に沿って、先週の水曜日、即ち、灰の水曜日から、イエス様の受難と死に与る四旬節が始まりました。いつもなら、その水曜日のミサに与る信者の皆さんの頭には灰が載せられるはずでしたが、今年は公開ミサが中止され、その大事な儀式が行えませんでした。その儀式は悔い改めの徴で、今までの自分の罪や悪い習慣を反省し、これからはそういった過ちを繰り返さないようにしようという決意の表明でもあります。その灰を頭に載せてから、全世界のカトリック信者は自分の罪の償いとして祈りと愛を実践する四旬節を過ごし始めますが、その40日の旅路はただの苦しみの道ではありません。その旅路で私たちはイエス様と改めて出会う豊かな恵みを味わえるのです。イエス様は私達と共にその道を歩んでくださり、私たちがその道でためらうことなく、最後まで歩めるように力づけてくださいます。また、イエス様は私たちがその道に迷わないように、自らが道案内人となって、私たちの歩みを導いてくださいます。実は、その道の案内人は、イエス様しかいません。なぜなら、誰よりもイエス様ご自身がその道を正確に知っておられるからです。事実、イエス様は私たちに先立って、自らその道を歩まれましたが、それは私たちをその道に導くためのことで、私たちは今日の福音を通してそれが分かります。

ご存知の通り、イエス様のメシアとしての活動は、洗礼者ヨハネの洗礼を受けてから始まりました。しかし、不思議なことに、神様はまず、聖霊を通してイエス様を荒れ野に送り出されました。その荒れ野でイエス様は40日間、野獣の脅かしや、悪霊からの色々な誘惑を受けねばなりませんでした。勿論、天使たちがイエス様に仕えましたが、とにかく、何もない所でイエス様は人間としての様々な悩みや葛藤、思い煩いなどと戦われたはずです。恐らく、それにはメシアとしての使命を受け止めるか、それとも、拒むかということもあったでしょう。他の福音によると、その40日の間、イエス様は何も食べずにおられましたが、その飢え渇きについて、悪霊は石をパンに変えるようにと要求したり、世の中の富や栄華などを見せながら、自分に仕えるようにと試したりしたのです。また、神様がイエス様を守ってくださるかどうかを疑うようにとも誘いました。しかし、イエス様はその過酷な状況と執拗な誘惑のさなかで、ただ神様を信じ、また、神様の意向に従って、その全ての試練に打ち勝たれたわけです。そして、旧約時代の最後の預言者であった洗礼者ヨハネがヘロデに捕らえられ、自分の役目を終えた後、ついに、イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」という言葉で、メシアとして本格的に働き始められたのです。

イエス様は、神様の愛と慈しみをもって福音を宣べ伝え、多くの人がその御言葉に耳を傾けて、神様への信仰を新たに整えました。また、他の人々は罪と悪から離れて、神様の愛に立ち返りましたし、多くの病人はイエス様に癒され、悲しみと苦しみの中にあった人たちは慰めと勇気と希望を頂きました。しかし、その道はいつも喜びと栄光に満ちた道ではありませんでした。イエス様は、時には酷い反対の的となって、様々な攻撃や試しを受けられました。特に、国の権力者たちや宗教指導者たちはイエス様を殺すため、執拗にその機会を狙っていたので、イエス様は常に殺害の危険にさらされておられたのです。そして、ついにイエス様は彼らの手で捕らえられ、異邦人によって十字架に付けられました。でも、イエス様は復活され、神様の愛と慈しみの勝利を証しされ、ご自身に従う人々、つまり、教会の頭として神様を信じる人々を今も同じ道に導いてくださるのです。その道は勿論、信仰と希望と愛の道で、私たちはその道を通って、「新しい天と地」と言われる神様の国へ行けるわけです。こうしてイエス様はすべての人に真の命への門を開かれましたが、その為のご自身の人生の道は荒れ野から始まったのです。

ここで少し、今日の第1朗読について話したいと思います。その時代、全ての人が罪を積み重ねていて、神様は人間とご自身が造られた全ての物を大水で滅ぼすことにされました。しかし、ノアだけは神様に認められ、命を救うことができたのです。彼は神様の指示通りに大きな箱舟を造って、その中で自分の家族や選ばれた動物たちと共に40日間の大雨と洪水から命を守りましたが、実際に彼らが箱舟に留まったのは、一年と十日間でした。その後、水がすっかり乾いたのを確認したノアは、家族や動物たちと共に、箱舟から出て、空の虹を見つめながら、神様と新しい契約を結びました。想像したら、とても美しく見えますが、実際にノアが見たのはどんな風景だったでしょうか。全てが無くなった大地、ゼロから始めなければならない荒涼とした大地の様子が彼らの目の前にあったでしょう。きっと、その荒れ野のような大地を目の前にしたノアは、神様だけが命の与え主であることをはっきりと悟り、自分には神様だけがおられることを心に深く刻んでいたに違いありません。

考えてみたら、イエス様の所謂公生活と言われる3年半は、荒れ野のようだったと思います。神様はイエス様の洗礼と荒れ野での40日を通して、メシアの道は荒れ野のような道であることを、前もって示されたかのような気がします。確かにイエス様は弟子達の招集から始め、その救いの道を自ら開拓されましたが、それは神様と人々への愛によって出来たことです。それはまるで、箱舟を出たノアに託された道のようでしょう。咎も罪も無かったノアでしたが、彼は大水の試練を経なければなりませんでした。しかし、神様は彼と新しい契約を結び、多くの人々がその祝福に与れるようにされたのです。ノアが受けた洪水の洗礼と箱舟から出たノアと神様との契約がそういうものであるなら、イエス様の洗礼と契約、また、その人生の道はどれほど恵み豊かでしょう。イエス様は罪も咎もない神様の独り子でありながら、多くの人の悔い改めと救いのために新しい契約の血を流されました。それがイエス様の人生の道だったのです。それについては今日の第2朗読もはっきり語っています。イエス様は「正しい方」でしたが、「正しくない者たちのために苦しまれたのです。」私たちはその正しい方の洗礼に与り、また、その方の道に招かれた人達です。その道は世の中の栄光や富、名誉と権力を得るための道でなく、多くの人の救いの為の道でしょう。その道で、私たちはイエス様の愛の働きを共にすることができるのです。私たちをその道に招いてくださった神様に感謝を捧げつつ、これからの四旬節も神様の恵みの中で過ごすことができるよう、お祈り致します。

原文のPDFファイルはこちらをクリックしてください。⇒ 2021年2月21日姜神父様のお説教

★Please click here for the FURIGANA version)  ⇒ 2021年2月21日姜神父様のお説教ふりがな付き

2021年四旬節教皇メッセージはこちら =>https://www.cbcj.catholic.jp/2021/02/15/22109/

☆彡新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のしための祈り ⇒ COVID-19inoriB7i