今日はイエス様の十字架上の死を記念する聖金曜日です。イエス様は昨日の夜、弟子たちと最後の晩餐を行った後、オリーブ山で神殿警備たちの手で捕まり、夜通し、祭司長たちや長老たち、また、議員たちに苦しめられました。そして、翌日の朝、つまり、今日、彼らによってローマの総督ピラトに渡されました。ピラトはイエス様が告発されたのは民の指導者たちの妬みのためだと思いながらも、自分の権力は守りたかったでしょう。それで、尋問の途中で、ピラトはヘロデのところにイエス様を送り、ヘロデとのかかわりを確かめたうえで、イエス様を十字架に付けることにしたのです。兵士たちはイエス様に十字架を負わせて、ゴルゴタという山まで歩かせました。そしてそこでイエス様を十字架に釘付けましたが、それは朝9時ごろのことでした。それから、イエス様は6時間十字架の苦しみをお受けになり、午後3時になって息を引き取られました。その後、アリマタヤのヨセフという人と、ある夜、イエス様のところを訪ねてきたニコデモとが、イエス様を葬りました。その時、隣にはイエス様が愛された一人の弟子と聖母マリア、そしてマグダラのマリアと何人かの婦人たちが一緒にいたと伝えられています。

考えてみたら、イエス様の裁判と処刑は、とても急いで行われたことが分かります。それほど、彼らにとってイエス様の存在は嫌だったのでしょうか。使徒ヨハネが自分の福音で語っているように、イスラエルの民の神様が来られたのに、彼らはその神様を拒んでしまったのでしょう。世を照らす光が輝いているのに、自分たちの行いが暗いので、彼らはその光を遮りたかったのでしょう。イエス様はいつも明るい所で、公に神様のことを言われましたが、彼らは夜中にイエス様を捕まえ、夜通し、イエス様を尋問し、或いは、拷問し、そして、夜が明ける頃、ピラトのところにまでイエス様を引っ張っていき、偽りの言葉でイエス様を告発し、密かに群衆を唆して、結局、自分たちの手ではなく、異邦人の手でイエス様を殺しました。群衆は益々興奮し、自分たちが何を叫んでいるのかも知らず、まるで、何か面白い見せ物を欲しがっているように、ピラトにイエス様の死刑を要求したわけです。神様はそのようにして、ご自分の独り子が新しい過越しのための小羊となることを許しておられたのです。その聖なる従順と沈黙の前で、人間はよこしまな心で反抗し、また、大声で神様を試していました。そして、その愚かさが今の時代にも繰り返されているのです。

さて、ローマのラテラン大聖堂にはピラトに引っ張られてきたイエス様が、彼の前まで上がるとき、通ったと伝えられている28段の階段があります。普通の木の階段ですが、イエス様は罪びととして、ピラトの前まで膝でその階段をのぼられました。そういうわけで、そこを巡礼する際に、多くの人々は人間の罪のために苦しめられたイエス様の愛を黙想しながら、その階段を跪いたまま上がったりします。わたしも経験したことがありますが、たった2~3歩だけですぐ休まねばなりませんでした。とても痛くて、膝を運ぶことができなかったからです。最初の一歩だけで、自分がなぜそれをしようとしたのかと、すぐ後悔してしまいました。そして、私たちの信仰生活について反省することになりました。

丈夫な体でもそれほどの苦しみを覚えたのであれば、夜通し尋問と拷問を受けられたイエス様の苦しみはどれほど大きかったでしょうか。今の時代の私たちは、心さえあれば、いつどこでも、自分の膝でなく足を運んで神様の家である教会に行けます。そこで夜通しの苦しみを受けなくても、ただ1時間のミサの中でイエス様に会えます。そして、大声で叫ばなくても、心静かにしたら、イエス様の愛のささやきを聞くことができます。何か完璧でなくてもいいし、素晴らしい活動でなくてもいいです。私たちのために独り子と共に苦しみを受けられた神様は、ただ、私たちのその小さくて謙遜な心と素直な信仰の歩みを望んでおられます。今日、イエス様の受難を黙想しながら、信者の皆さんのこれからの信仰生活が、神様の御心に適うものとなるよう、お祈りいたします。

 

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