新型コロナウイルスのために、あまり外出はせず、ずっと教会に留まっていて、いわゆる巣ごもりのようになっています。司祭においては教会が自分の家であり、職場でもありますので、知らない人との出会いや思いがけない状況に遭うことは、とても珍しいことです。ですから、時々、「自分だけの世界」に引きこもって生きているのでは、という不安さえ感じたりしています。その「自分だけの世界」とは、自分の思いややり方、或いは、生き方でしょう。それに留まって、また、それを固く守ろうとしたら、司祭は自分がいただいた大きな恵みを無駄にしてしまうはずです。ですから、これからも、もっと柔軟な心で生きるためにも、神様の愛をより深く学びたいと思います。

今日の福音でイエス様は、「互いに愛し合いなさい。」という最も大切な掟を、弟子たち、および、信仰のあるわたしたちに授けられました。この掟はイエス様の最後の晩さんで授けられたもので、この掟からはイエス様の命がけの愛が感じられます。イエス様は先ず、ご自身が御父の掟を守ることによって、御父の愛にとどまっていることについておっしゃいました。その「御父の掟」については、先々週の主日の説教でも申しましたが、それは良い羊飼いが自分の羊の群れのために命を捧げるということです。イエス様はその良い羊飼いの役目を果たして、御父の愛にとどまられたわけです。それと同じく、今度は弟子たちにご自分の掟を守ることによって、彼らがイエス様の愛にとどまることになるとおっしゃいました。併せて、イエス様にとって、良い羊飼いとしての役目を果たすこと自体がご自分の喜びだったでしょう。それと同様に、弟子たちもイエス様の掟を守ることによって、イエス様のその喜びに与れると言われました。そしてついに、「互いに愛し合いなさい。」というご自分の掟を弟子たちに授けられたのです。それからイエス様はご自身が成し遂げられるべき愛について言われましたが、それは「友のために命を捨てる」ということでした。それは先ほど申した「羊の群れのために命を捧げる良い羊飼いの役目を果たすこと」でしょう。イエス様は弟子たちを僕ではなく友として認めてくださり、彼らのためにご自分の命を捨てることをはっきりとおっしゃったのです。それは弟子たちを罪から贖うためのことよりも、彼らも「良い羊飼いであるイエス様の友」として働く人となるためのことでした。事実、先週の主日の福音で聞きましたが、弟子たちはもうすでに真のぶどうの木であるイエス様の御言葉で清い枝となっていたでしょう。しかし、イエス様は彼らがご自分のみ言葉だけではなく、イエス様の命によってもっと清くなって、彼らがイエス様の友として出かけて、もっと豊かな実を結ぶことを望まれました。ということで、イエス様は彼らのために命を捧げ、その血によってより清くなるようにとなさったのです。そして、最後にイエス様はもう一度、「互いに愛し合いなさい。」と言われ、彼らがその愛から離れることなく、いつもその愛にとどまるようにと命じられました。

わたしは今日の福音を黙想しながら、先ず、イエス様の御父への信仰について考えてみました。今日の福音は「父がわたしを愛されたように」という言葉から始まりましたが、わたしはそれがイエス様の信仰だと思います。つまり、イエス様は御父がイエス様を愛しておられることを強く信じておられたのです。そういう強い信仰があったからこそ、イエス様はご自分の命を捧げることができたでしょう。言い換えれば、イエス様は御父の愛による救いの計画に従ってご自分の命を捧げたら、御父が必ず復活させてくださると確信しておられたのです。イエス様のその強い信仰を私たちは学ぶべきです。現実生活の中で、私たちの信仰は色々な誘惑で揺るぎがちです。その度毎に、神様はわたしたちを愛し、また、支えておられることを改めて心に留めるべきだと思います。

次に信者の皆さんと考えたいのは、イエス様が御父から頂いた掟とイエス様がわたしたちに与えてくださった掟とのことです。イエス様は御父からの掟を守ることによってイエス様ご自身が御父の愛にとどまり、また、イエス様の掟を守ることによって私たちがイエス様の愛にとどまるとおっしゃいました。ところが、イエス様はわたしたちにご自身が御父から頂いた掟、すなわち、良い羊飼いとして命を捧げることや友のために命を捧げるというような掟を要求されませんでした。わたしたちにはただ、「互いに愛し合いなさい。」という掟を与えてくださったのです。もしかすると、実際に誰かのために命を捧げる機会が与えられるかもしれませんが、とにかく、イエス様が命じられたのは「互いに愛し合う」ことでした。イエス様がおっしゃった愛とは一方的なものでも、また、誰かが先に愛してくれてから交わされるものでもありません。イエス様の愛はすべての差別や条件、基準などを超えて注がれています。なのに、わたしたちが互いにいろいろな条件や基準で人を判断したり、差別したり、虐めたりするのはあってはならないことでしょう。その神様の慈しみやイエス様の愛については今日の第1朗読がよく語っていますが、わたしたちの間には、そういう条件などで苦しむ人や悩む人、悲しむ人がいてはいけません。酷い目や冷たい態度、思いやりのない言葉や勝手な判断、自分のことを強いる暴力的なふるまいは、教会を弱めるばかりか、イエス様の羊の群れを狙う狼の行いであり、まことのぶどうの木を病ませる毒素でもあります。そのように振る舞う人は、愛の福音を証しするどころか、むしろ、自分の愚かさを証しするだけです。わたしたちはそれらに十分気を使うべきです。

わたしたちはただ「互いに愛し合いましょう。」今日の第2朗読に書いてあるように、「神様は愛」だから、「神様から遣わされたイエス様も愛」でしょう。そのイエス様が人間の罪を償われ、清くされました。そしてわたしたちを選ばれて、「愛になれ」と仰せになりました。わたしたちがイエス様を選んだのではなく、イエス様が私たちを選ばれたのです。ですから、愛し合いましょう。特に、巣ごもりのようになりやすい現実の中で、信者の皆さんが、自分だけの世界に留まることなく、また、そこに引きこもることなく、イエス様の愛にとどまる人となるように、お祈りいたします。

☆原文のPDFファイルはこちらをクリックしてください。⇒2021年5月9日姜神父様のお説教

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