先週の主日の説教で、ミサの中で司祭だけが小さな声で唱える祈りについて話しましたが、事実、説教を書きながら私自身も驚きました。なぜなら、自分がミサを捧げながら、それほど多くの場面で祈っていたのかに気づいたからです。また、実際にその回数を数えてみたことも初めてのことでした。初めて数えたというのを言い訳にするつもりはありませんが、唱える祈りの数を間違えて数えていました。正しいのは、九つの場面ではなく十の場面です。わたしが省いてしまった一つの場面とは、イエス様の御体のひとかけらを御血に入れた後、御体と御血にお辞儀をする前の祈りです。信者の皆さんに間違えて説教してしまい本当に申し訳ありませんでした。そして、せっかくミサの中での司祭だけの祈りについて話しましたので、今週は福音朗読の前、司祭と信者の皆さんが行う一つの動作について話したいと思います。それは皆が自分の額と唇、また、胸に小さな十字架のしるしをしながら、「主に栄光」と唱えることです。その短い賛美とそれに伴う動作は、その御言葉を自分の知性で考え、それを自分の口で告げ知らせること、また、その御言葉を自分の心に刻み込むことを表し、更に、日々その御言葉に従って生きることによって、主の栄光を現わすことができるようにと願うことなのです。確かに、神様の御言葉、特に、イエス様の御言葉に従わなければ、私たちの毎日は水のない荒れ野のようになり、詩編の言葉を借りて言うと、「口があっても言えず、耳があっても聞こえない偶像に従う者」となるはずです。

今日の福音で、イエス様は「耳が聞こえず舌の回らない人」を癒されました。それはいわゆる、イエス様が異邦人の地域で宣教された後、ガリラヤに戻って来られた時のことでした。その時、群衆はその病人をイエス様に連れてきて、彼の上に手を置いて癒してくださるようと願ったわけです。そこで、イエス様は彼を群衆から連れ出し、別の所で、特別な行為で彼を癒してくださいました。まず、イエス様は彼の両耳にご自分の指を差し入れ、それから唾をつけて彼の舌に触れられました。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われました。すると彼の耳は開き、舌のもつれが解け、彼ははっきり話すことができるようになったというわけです。その後、イエス様はだれにもそのことを話してはいけない、と口止めをされましたが、そう指示すればするほど、人々は却ってイエス様のことを言い広めました。そして、皆すっかり驚いて、今日の第1朗読が語っているように、「イエス様は耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口のきけない人を話せるようにしてくださる方である。」と誉めるようになったのです。それはイザヤの預言通りに、救い主が来られたのを表すことです。

やはり、イエス様はメシア、すなわち、救い主として来られましたが、それは単にイスラエルのためのことだけではありませんでした。つまり、イエス様はすべての人に神様の慈しみと愛による救いを宣べ伝え、また、それを実現するために来られたのです。今日の福音で、イエス様は異邦人の地域で宣教された後、ガリラヤに戻られて、その病人をいやされました。ここでちょっと難しい話となるかもしれませんが、マルコの福音の構造について話したいと思います。

マルコの福音の中で、今日のイエス様の出来事は、シリア・フェニキアの婦人の娘を癒された話と、四千人を満腹させた話の間に載せられています。それはイエス様がユダヤ人に限らず、異邦人にも神様の救いの福音を宣べ伝えておられたことを示すからでしょう。しかし、そのイエス様の様子は、自分たちだけのためのメシアを求めていた多くのユダヤ人たちにとっては、気にいらなかったはずです。そこで、イエス様は異邦人の地域からガリラヤに戻られ、ユダヤ人たちに向かって特別なしるしを示されましたが、それこそが今日の出来事だったのです。イエス様は今日の病人を群衆から連れ出し、別のところで彼を癒されました。それはまるで、イスラエルの民が荒れ野で神様に出会ったことを表すように見えます。そこは世の中の複雑でやかましい所ではなく、ただ神様だけに向かうしかない所ということでしょう。そこで、イエス様は憐れむような行動でその病人を慰めながら、「エッファタ」とおっしゃったわけです。その言葉は「開け」という意味ですが、それは「今までは閉ざされていた」ということを表します。言い換えれば、イエス様はその病人のことを、イスラエルの民のかたくなに閉ざされている心のように見ておられたのです。その心は、神様の慈しみと愛から離れた心、それを失ってしまった心なのです。イスラエルの民はそういう心で、自分たちもローマの植民地の人であるのに、共に住んでいる異邦人を蔑んだり、虐げたりしました。そして、自分たちだけが選ばれた民族で、神様に救われる資格を持っていると信じていたのです。そこで、イエス様は今日の出来事を通して、神様の慈しみと愛に立ち返る人であれば、誰もが神様に救われる神様の民族、その子供となれることを示されました。イエス様はすべての人の罪の重荷を十字架に載せてそれを負い、その十字架上で神様の愛と慈しみを証しされたのです。それはイエス様のみ言葉に耳を傾け、イエス様の愛の生き方に従う全ての人を神様の救いへ招く為でした。わたしたちは皆、その招きにこたえて、イエス様の御言葉と愛の宴に招かれている人々なのです。ですから、今日の第2朗読で使徒ヤコブが語っているように、世の中のかたくなな基準などに基づいて人を差別したり、虐めたり、蔑んだりしてはいけません。むしろ、皆が相手を自分のように愛すべきです。福音を聞く前、十字架のしるしを額と口と胸に刻み込むのは、それぞれの生活の中で、イエス様の愛を証しする者となろうという意志の表明でしょう。わたしたち一人一人がイエス様の御言葉と愛に従って生き、神様の慈しみと愛を証しすることができるよう、お祈りいたします。

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