「長くて霊的にも内容のない説教は、神の言葉を単なる抽象的な観念におとしめてしまい、人の魂を目覚めさせることもできない。」これは今週のカトリック新聞の第一面に書いてある、司祭の説教についての教皇様のお話です。その記事を読みながら、わたしは大きく共感しながらも、自分の説教について深く反省しました。教皇様のお話の中で何よりわたしの心を刺したのは、「信者さんたちが時計を気にし始めて、『これはいつ終わるのかな』。そこで魂は眠りこけてしまうのです。」という言葉でした。確かに、神学校で「説教学」を学んだ時、冗談まじりに聞いたことも、そういうことでした。つまり「五分以内の説教は神様のお話、十分以内の説教は神父の話、それ以上だったら悪魔の誘惑」ということです。これは勿論、ただ説教の時間に対するだけの話ではありません。でも、教皇様のお話を考えながら「わたしは、果たして今まで、神様のお話を伝えてきたのか、或いは、自分の話や悪魔の誘惑をしゃべってきたのか。」と反省しました。そして、その反省の中で御言葉を読み、また、黙想した今日のイエス様のシンプルな言葉は、わたしの反省をもっと深くさせるに十分でした。

今日の福音は、マタイの福音に書いてある、いわゆる「山上の垂訓」の別の形の御言葉ですが、ちょっと違う構成と内容で成っています。つまり、山上の垂訓はすべて、まことに幸せな人について語っていますが、今日の福音はまことに幸せな人だけではなく、その反対の不幸な人についても記しているのです。また、使われている言葉はとてもシンプルで、しかも、幸せであれ、不幸であれ、同じ言葉が使われています。ということで、今日の福音は山上の垂訓とは違う御言葉のようにも見えますが、とにかく、これからは少し深く今日の御言葉を味わいたいと思います。

今日の福音で、イエス様は先ず、まことに幸せな人とはだれかについておっしゃいました。それは「貧しい人々、今飢えている人々、今泣いている人々」、そして、「人々に憎まれ、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられる人々」なのです。その人たちにはそれぞれ、神様の国が与えられ、満たされ、笑うようになり、また、大きな報いが与えられます。その人たちにそういう祝福が授けられるのは、彼らの先祖も、「預言者たちに同じことをした」からです。言い換えれば、昔の預言者たちのようになったら、神様に祝福されるということでしょう。実に、イスラエルの歴史の中で、神様に従った人たちは世の中の人たちに憎まれ、追い出され、ののしられ、また、汚名を着せられました。そして、その結果、彼らは現実的な貧しさや飢え渇き、また、悲しみを耐えなければならなかったのです。しかし、彼らは神様だけに全てを任せて、神様への信仰を固く守りました。それは彼らが選んだ道で、彼らは神様が必ず報いてくださると信じたわけです。

その一方、神様ではなく、権力や財力などの世の中の力を頼りとした人たちと、そんな彼らに従い、ほめそやされた偽預言者たちは、いつも楽で幸せに過ごしました。彼らはその富を分け合いながら贅沢な暮らしをし、もはや苦しみや悲しみは彼らにとって無縁のものだったのです。イエス様は人々に旧約の歴史を思い起こさせながら、その人たちは不幸になると公に宣言されました。彼らにはただ世の中の慰めが与えられ、飢えと苦しみと悲しみの報いがあるだけです。その報いは勿論神様から下されるもので、神様はそれらを彼らが受ける永遠の報いとされるはずでしょう。彼らはすでに神様への道から離れて、世の中の華々しい道を歩み、その口先には信仰という言葉がのぼるが、その心は不信仰に満ちているわけです。そんな人たちの耳には神様の御言葉は届かず、その目には世の中のものしか見えないはずです。ですから、神様から頂く賜物がないのは当然でしょう。

不思議なことですが、今日の福音は申命記の大事なテーマを思い起こさせるようです。それは「シェマ、イスラエル」、すなわち、「イスラエルよ、聞け。」ということで、その昔、シナイ山で神様から掟をいただいたモーセが、荒れ野でイスラエルの民に訴えたことです。その荒れ野で、彼は祝福と呪いの道を民全体の前に示し、彼らにどちらの道を選ぶのか、はっきり決断するよう促しました。その時モーセは、神様を信じ、その掟を守り、神様だけに従うことが祝福の道で、一方、神様に背いて、世の中の様々なことに拘り、それらを憧れて敬うようになったら、それこそが呪いの道であると教えたのです。実に、今日の福音は「山上の垂訓」と別に、「平地の垂訓」と呼ばれる箇所です。山の上で弟子たちに八つの真の祝福を教えられたイエス様は平地に下りて、まるで、モーセのように私たちに選択を促しておられるようです。それは、今日の第一朗読が語っているように、神様を信じて、水の辺の木となり、どんな状況に遭っても豊かな実を結べる木となるか、それとも、人間や世の中に信頼し、その心が神様から離れて乾いた土地の萎れた木のようになるかという選択でしょう。言うまでもなく、わたしたちは命の道、真の祝福の道、生き生きとする木となる道を選んだ人たちです。このわたしたちのために、イエス様は今日の第二朗読に書いてある通り、死に打ち勝ち、復活されて永遠の命の与え主となられました。その永遠の命への道の糧として与えられたのが、まさにこのミサで朗読される神様の御言葉と福音、また、ご聖体でしょう。わたしたちは天の国の地上のしるしである教会の一員、つまり、神様の民となりました。そして、その教会の中で永遠の宴のしるしであるミサに与り、御言葉とご聖体の恵みで満たされ、その国の喜びを味わい、また、神様の預言者として世の中に派遣されるのです。これは、もう今日の福音に書いてあるまことに幸せな人の姿でしょう。これからもその姿をきちんと守りながら生きてまいりましょう。

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