いよいよ枝の主日となり、今年の四旬節の最後の週が始まりました。毎年、変わらず過ごす四旬節ですが、今年はいつもと少し違った四旬節でした。何日間か教会から離れたり、三回目のワクチンの副反応で辛かったりしたこともありました。また、時には自分の感情のコントロールをきちんとせず、そのまま感情をあらわにして、他人を傷つけたこともありました。それらを振り返ってみると、人間は自分の居場所を大切にしながらも、その居場所が自分によって天国にも地獄にもなるかもしれないことを、あまり気付かないまま生きているのでは、という気がしました。今日から始まる今年の聖なる一週間を、少しでも真剣に過ごして、イエス様の復活をもっと嬉しく迎えたいと思います。

枝の主日と言われる今日は、主の受難の主日とも言われ、この一週間の出来事をまとめて記念します。つまり、イスラエルの民全体がどのようにイエス様を喜んで迎え入れたのかということと、その人たちがどうしてイエス様を十字架上の死に追い詰めたのかということです。ということで、今日はミサの初めに「エルサレム入城の福音」を聞き、ミサ中には「主イエス・キリストの受難」という福音を聞きました。特に「主イエス・キリストの受難」という福音は何人かの奉仕者と、また、ある箇所は信者の皆さんと共に読みます。それは、わたしたち皆が、イエス様の十字架処刑に責任があることを示すためでしょう。その著しく対照される二つの福音から、わたしたちはその昔のイスラエルのある歴史と出会い、その歴史が今の時代の私たちの中でも繰り返されているのが分かります。それは、神様の代わりに王を要求したことで、イスラエルは自分たちも王を持つほかの国のようになることを神様に要求したわけです。こうして、王政時代が始まり、イスラエルはあらゆる罪を犯しながら、その結果として様々な苦しみを味わわねばなりませんでした。同じく今日の第一福音は、イエス様を自分たちの王として迎え入れたことを表し、第二福音は、その数日後、同じ人たちがローマの皇帝という世の中の人間を自分たちの統治者として認めたことを示しているのです。ご自分を遠ざけた人間の救いのために、自ら人となって来られたのに、人間はその方を拒み、世の中の愚かな道を選んだのは、何と憐れなことでしょう。でも、わたしたちもそのようにしているかもしれません。世の中の物事に囚われて、自分がどこへ向かって、どんな道を歩んでいるのかに気づかないまま生きているかもしれません。そして、その道中で、自分の隣人となってくださったイエス様を、思いや言葉、行いによって、何度も殺しているかもしれません。

今日の福音で、新しい枝を持ってイエス様を迎えた人たちは、枯れた十字架の木にイエス様を釘付けにしました。わたしたちも今日、新しいソテツの枝を手にしましたが、数日後それは枯れてしまいます。わたしたちの神様への信仰と希望と愛、また、隣人への愛もそのようなものです。ですから、常に神様と隣人に心をとめ、そこから離れないように気を遣うべきです。そこがわたしたちの居場所で、そのような心と愛によってその居場所は天国になるはずです。今日からの聖週間を過ごしながら、信者の皆さんがイエス様の受難に深く与り、その復活を喜びの中で迎えることができるよう、お祈りいたします。

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