先週の主日の福音で、イエス様は土に蒔かれた種やからし種の例え話を通して、神様の国の種の生命力と豊かさについて教えられました。その種は、土、つまり、神様の慈しみと愛によって成長し、そして、世の中のどんな種よりも小さなからし種ですが、すべての鳥がそこに巣を作れるほどの大きな木になります。その「すべての鳥」とは異邦人を指す言葉で、イエス様の救いの福音が、ユダヤ人だけに限らず、あらゆる時代のすべての人にも伝えられることを表しています。ちょうど、今日の福音でのイエス様の歩みは、それを示しているのです。
今日の福音で、イエス様は夕方になって、弟子たちに「向こう岸に渡ろう。」と言われました。その「向こう岸」とは異邦人の地域で、イエス様はすでに神様の救いの種である福音を、異邦人にも教えようと心に決めておられたのです。イエス様はそれを先延ばしにはしたくなかったようです。つまり、翌日の朝からすぐ、向こう岸の異邦人たちにその福音を宣べ伝えたかったということです。ということで、イエス様はこちらでの活動を終えた頃、つまり「夕方になって」、「向こう岸に渡ろう。」とおっしゃったわけです。そのイエス様の促す言葉を聞いて、弟子たちは「イエス様を舟に乗せたままま」漕ぎ出しました。きっと、イエス様はずっと舟に乗っておられたのでしょう。ここに書いてある「乗せたまま」という言葉や、先ほどの「夕方になって」という言葉から、私たちは福音宣教についてのイエス様の情熱を知ることができます。神様の独り子であるイエス様の慈しみと愛は、休む暇もないでしょう。
一方、弟子たちは予期しなかった強い風や大波に遭って、それに巻き込まれた舟は沈むかもしれない危険な状況となってしまいました。しかし、そんな状況にもかかわらず、イエス様は何も知らないかのように、舟の艫の方で枕をして眠っておられました。命を失うかもしれない状況と戦っていた弟子たちは、そんなイエス様の姿に業を煮やし、ついにイエス様に、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか。」と言いました。彼らの目には、イエス様が自分たちのために何もなさらないように見えたのでしょう。その叫び声で目覚めたイエス様は風を叱り、また、湖に、「黙れ、静まれ。」と言われました。すると、風も湖もすっかり凪になりましたが、イエス様は「なぜ怖がるのか。まだ、信じないのか。」と弟子たちをたしなめられました。イエス様は、彼らが覚えた恐怖ではなく、彼らの不信仰を責められたのです。その不信仰はなぜ起こったのでしょうか。実は、弟子たち、特に、ペトロやアンデレ、ヤコブやヨハネは、その湖で漁師として働いた人たちでした。彼らはきっと夜中の湖の危険や、向こう岸、つまり、異邦人の地域への不安に包まれ、イエス様がどんな方であるのかが分からなかったのでしょう。弟子たちは様々で複雑な心となり、また、自分たちが知っている色々な情報や経験を鑑みながら、もしかすると、自分たちをそのような危険な所に連れて行こうとしておられるイエス様を恨んでいたのかもしれません。もしくは、まったく行きたくなかったのかもしれません。そういう心に惑わされていた弟子たちがイエス様の真の様子を見つけるのは、やはり難しかったでしょう。しかし、彼らはイエス様の一言で風や湖まで服従するのを見て初めて、「いったいこの方はどなたなのだろう。」と言いながら、イエス様のことを真剣に考え始めるようになったはずです。果たして、イエス様はどんな方なのでしょうか。
今日の第1朗読はヨブの話を語っています。ヨブは神様に義人として認められていた人でしたが、サタンはそのヨブを疑っていました。そこで、サタンはヨブを試す権限を神様から得て、彼の財産や子供たちの命を奪い、さらに、彼自身をひどい病気で患わせたのです。そこでヨブは自分を慰めにやってきた友達との口論で、神様を恨むような言葉を口にしましたが、決して神様を裏切りませんでした。むしろ、彼は神様の権能を認め、神様に全てを任せたのです。それをご覧になった神様はヨブを改めて悟らせ、更に、彼に以前より最も大きな祝福を与えてくださいました。このヨブの話を通して、神様は自らの全知全能性を表されましたが、それは人を脅す、或いは、苦しめるためではなく、慈しみと愛をもって人を救うためだということをはっきりと教えられたのです。つまり、神様は一人の義人ヨブの苦しみを通して、すべての弱い人たちに希望を与え、また、神様への信仰の正しさを教えられたわけです。そのヨブの姿はイエス様によって完全に現わされたでしょう。イエス様はすべての人の救いのために、自ら十字架の死を受け止められました。その受難の前、イエス様は人間的な悩みに包まれましたが、結局それに負けず、十字架の死を持って、神様の愛と慈しみによる救いを全うされたのです。全ての人の救いのためのイエス様の歩みは、一刻も早く苦しんでいる人や悩んでいる人、困っている人に向かっていました。弟子たちが怖がっていた夜中の湖や激しい風も、イエス様の歩みを妨げることはできなかったでしょう。イエス様が夜中で弟子たちを促されたのは、その満ち溢れる愛のためだったに違いありません。
そのイエス様の愛は今も変わらず、信仰のあるすべての人を促していて、今日の第2朗読にも、「キリストの愛がわたしたちを駆り立てています。」と書いてあります。私たちはキリスト・イエス様と結ばれた人たちで、その愛によって新しく創造されました。ですから、私たちは人間的で個人的な考えや基準、知識や経験、色々な差別や偏見を超えて、ただイエス様の愛の促しに素直に従って生きるべきです。特に、長くなっている新型コロナウイルス感染症との戦いの中で最も大事なことは、そのイエス様の愛と慈しみを実践することだと思います。このミサの中で、わたしたちがあらゆる形で苦しんでいる人々に寄り添い、イエス様の愛を分け合うことができるよう、神様の導きと力を祈り求めましょう。
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