聖書によると、神様は土で人間を造り、ご自分の息吹を吹き入れて生きるものとされましたが、高慢な心で神様に背いて罪を犯した人間は、その罪のために神様の前から追い払われました。その時、神様は人間に対して「塵にすぎないお前は塵に返る。」とおっしゃいました。それは人間を呪う言葉ではなく、人間の愚かな高慢に対する戒めでした。この高慢こそが、人間のあらゆる罪の源であることを示す言葉だと思います。つまり、人間は神様の愛によって命をいただきましたが、この高慢によって命を失い、塵に返ってしまうものとなるということでしょう。そういう意味かもしれませんが、へブレア語の「人間」と「謙遜」という言葉は、「土」という言葉からできたと言われます。わたしたちは自分が必ず土に返っていくものであるのを悟り、謙遜な心で自分をへりくだらないと、罪に自分を任せ、その罪の中で神様からいただいたいのちや、神様との絆も失ってしまうのです。
今日の福音で、イエス様は食事のためにファリサイ派のある議員の家に行かれました。そこで招待された人たちが上席を選んでいる様子に気づいて、婚宴の例え話を聞かせ、さらに、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」とおっしゃいました。そして、ご自分を招待してくれた人にも、食事を催す時、誰を招くべきかについて一言おっしゃいました。それは、自分と様々な形の縁のある人たちや、世の中のあらゆる形の力を持っている人たちではなく、むしろ、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」など、いわゆる、世の中で弱い立場にある人たちを招くべきである、と話されました。福音の最後にイエス様は、「その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい人たちが復活するとき、あなたは報われる。」と言われましたが、その報いは神様から与えられるでしょう。
今日の福音のテーマは、「上席を選ぶ人たちへの例え話」と、「弱い立場の人たちを招きなさい」と言う教えに分けられますが、いずれも「謙遜」について語っています。イエス様は先ず、「上席を選ぶ人たちへの例え話」を通して、わたしたちが求めなければならない「真の上席」について教えられました。それは、みんなが避けたがるに違いない「末席」で、それを選ぶのは、単に「恥をかかないようにするため」でなく、「もっと積極的に自分を低くするため」なのです。そういう謙遜なふるまいに応じた相応しい扱いや報い、つまり、自分の謙遜なふるまいが認められるかどうかは重要ではありません。大事なのは自分をへりくだることそのものであり、それはイエス様に従うわたしたちがしっかりと身に付けなければならない大切な姿勢です。なぜなら、イエス様は御父である神様の救いの計画を完成するため、自らを低くして人となられ、しかも、十字架の恥まで受け入れられました。その謙遜によって、イエス様は罪深い人間を神様への信仰の道に導いてくださり、その信仰を通して人間は神様を敬い、また、あがめるようになったのです。こうしてイエス様は、今日の第一朗読に書いてある「主はへりくだる人によってあがめられる」ことを自ら証しされたのです。そう考えたら、イエス様の十字架のあるところこそ、わたしたちが選ばねばならない「真の上席」に違いありません。
それではイエス様の十字架のあるところとは、どんなところでしょうか。それは、今日の福音のイエス様を招いてくれた人への教えからよく分かります。イエス様は、「宴会を催すときには、友人や兄弟、親類や近所の金持ちではなく、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」とおっしゃいました。実に、イエス様はイザヤの預言通り、「貧しい人に福音を告げ知らせ、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にするために」来られました。イエス様はいつも罪びとやあらゆる病気のある人たちの友となられ、彼らのそばにいてくださいました。言い換えれば、彼らのいるところにイエス様は共におられ、彼らのために自ら宴会の主となってくださったわけです。それだけではなく、イエス様はご自分の十字架上で永遠の命の糧を用意し、信じる人々をその場へと招いてくださいました。そんなイエス様が、ご自分を招いてくれたこのファリサイ派の議員に、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見ない人を招きなさい。」とおっしゃったのは全然見当違いなことではないでしょう。世の中の弱い人たちの友であるイエス様は、その人たちがいるところに共におられます。そこにイエス様の十字架があり、イエス様はそこにわたしたちを招いておられるのです。ですから、わたしたちもイエス様のように自分をへりくだって、世の中の弱い人たちの友となって生きて行くべきです。
イエス様はそんなわたしたちのために、今日もご聖体を通して力づけてくださいます。今日の第二朗読で、使徒パウロはとても荘厳な言葉で神様の国について語っていますが、このミサを通してわたしたちはこの世からすでに神様の国の永遠の宴会に招かれているのです。わたしたちがその宴会にふさわしい人となることができるよう、このミサの中でお祈り致しましょう。