世の中には、「カトリック教会は人間の罪意識を強調する傾向がある。」と思っている人たちがいるようですが、信者の皆さんはどう思われますか。多分、言いにくいと思いながらも、それに同意する信者も多数おられるでしょう。特に「赦しの秘跡」を巡っては、「どうして、教会は罪の告白を強いているのか。」という不平も心の中に生じるかもしれません。そこで、今日はイエス様の福音の御言葉から、「赦しの秘跡」についても少し考えてみたいと思います。

そもそも、今日の福音は三つの例え話となっていますが、「聖書と典礼」には二つの例え話だけが書いてあります。その三つの例え話に、それぞれ「見失った羊」、「無くした銀貨」、そして、「放蕩息子」というタイトルが付けられていますが、それらはいずれも、ある特定な人たちに向けられています。それは「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエス様に近寄ってきた」時、それを見つめながら「この人は罪びとたちを迎えて、食事まで一緒にしている。」と不平を言いだした「ファリサイ派の人々や律法学者たち」でした。彼らは律法に基づいた「義人」、つまり罪のない人たちとして認められていましたが、イエス様はその偉い人たちに聞かせるためにこれらの例え話をなさったわけです。その全体的な内容を鑑みたら、イエス様はその人たちに、まるで「あなたがたは天の喜びに与ることができない。」とおっしゃっているようです。その喜びとは、見失った一匹の羊を見つけた羊飼いとその仲間たち、また、無くした一枚の銀貨を見つけた女とその仲間たちにしか味わえない喜びでしょう。その喜びとは、自分を悔い改めて慈しみ深い父親の家に戻って来た放蕩息子とその父親の喜びであり、また、その息子を喜んで迎え入れた人たちだけの喜びに違いありません。その一匹を捜し回っていた羊飼いも、また、一枚の銀貨を捜していた女も、そして、その放蕩息子を待ちに待っていた父親も、決して迷った羊や転がった銀貨、また、身勝手な放蕩息子を責めませんでした。ただ、見つけたものをもっと大事にし、帰ってきた息子を憐れみ深く抱いてくれただけです。彼らにとって、「なぜ、群れから離れたのか、なぜ、無くなったのか、なぜ、家を出たのか。」などの追及は、もう意味もないことだったでしょう。大事なのは、「見つけたこと、かえってきたこと、生きていたこと」だけだったのです。それが、慈しみと憐れみに満ちておられる神様の御心であり、イエス様は今日の福音を通して、その愛深い姿を示してくださったわけです。

一方、今日の福音の主な聴衆であるファリサイ派の人々や律法学者たちは、「放蕩息子」の例え話に登場する兄であることが分かります。兄はどうしても自分の弟と父親を理解したくなかったのでしょう。特に、父親に対しては、強い恨みと憎しみを持っているように見えます。そういう心を持っていたら、父親との親密な絆が築けるはずがありません。それどころか、日々の生活の中で不満と不平を心につのらせ、父親と共にいることは彼にとって耐えられないことだったに違いありません。言い換えれば、心理的に父親の家を離れてしまったのは、兄のほうだったかもしれません。結局弟は家に帰って来ましたが、兄は家に入ろうとしませんでした。それこそが彼の本心だったでしょう。残念なことに、ファリサイ派の人々や律法学者たちは律法の厳しさに拘り、それよりもっと大事な慈しみと愛からは離れてしまっていたのです。

イエス様は今日の三つの例え話を通して、わたしたちが神様の慈しみと愛に立ち返ること、つまり、悔い改めることの大事さを教えてくださいました。そして、わたしたちもその慈しみと愛を喜び分かち合うことができる人となることを望んでおられます。興味深いことに、今日の三つの例え話のタイトルは、「見失った羊」と「無くした銀貨」、そして「放蕩息子」です。その中で先の二つは、まるで、誤って羊飼いが羊を見失い、また、女が銀貨を無くしたように見えます。一方、「放蕩息子」の例え話は、その息子自身の過失に思えます。でも、見失った羊と羊飼い、無くした銀貨と女、放蕩を尽くした息子と父親は、結局、それぞれの絆を回復しました。その絆を回復すること、また、強めること、それが「赦しの秘跡」のポイントです。

そもそも、罪とは神様との絆を損ねたり、阻んだりするものなのです。過ちや習慣的な咎なども、それを繰り返すことによって神様とのきれいな人格的関係にひびが入り、結局、神様への心を鈍くしてしまいます。その結果、神様の子供という特別な恵みは失われ、自分も知らないうちに、荒れ果てた野原のような世の中でさ迷う一匹の羊となり、父親の家から離れた憐れな子供となるわけです。赦しの秘跡は、わたしたちに与えられた神様の恵みを思い起こしつつ、それをどれほど大事にしてきたのかを顧みることから始まります。そして、自分の罪や過ちを素直に認めて神様からの赦しをいただき、神様と共に互いの絆を回復し、また、それを強めるのです。その神様との和解の喜びこそが、赦しの秘跡の賜物であり、その賜物によって、隣人に向かう愛も深まるでしょう。これからも、赦しの秘跡をためらうことなく受け、むしろ、それによって、信者の皆さんと神様との絆が強められるよう、お祈りいたします。

ふりがな付きはこちらからダウンロードしてください。