教皇グレゴリオ一世が、自らを「神様の僕たちの僕」(Servus servorum Dei)と言い始めてから、その呼称は歴代の教皇たちによって使われています。それは、教皇とはすべての信者に仕える人であることを表し、仕えられるためでなく仕えるためにこられたイエス様に倣う人であることを示す呼称なのです。この呼称からも分かりますが、例えば、教皇が自らを「神様の僕たちの僕」と言うならば、信仰のあるすべての人は「神様の僕」となるでしょう。勿論、教皇のこの呼称は、教皇自身の謙遜を表すものですが、これは教皇だけでなく、わたしたちにも当てはまるものだと思います。
今日の福音で、イエス様は群衆と弟子たちに、律法学者たちやファリサイ派の人々の言うことは、すべて行い、また、守るようにとおっしゃいました。ところが、彼らの行いは見倣ってはならないと付け加えられました。なぜなら、彼らは言うだけで、実行しないからです。では、いったい彼らは何を実行しなかったでしょうか。彼らは律法について教えていましたが、それは民衆にとっては、まるで、重い荷物のようなものだったのです。では、その律法とはどのようなものでしょうか。彼らが教えた律法とは、にせ物の「神様の愛と慈しみのしるし」だったでしょう。言い換えれば、律法学者たちやファリサイ派の人たちは、神様の愛と慈しみのしるしである律法を教えながらも、その慈しみと愛を実行しようとはしなかったということです。そればかりか、律法学者たちやファリサイ派の人たちは、自らを高くされることを好み、すべての人から尊敬され、また、認められたがっていました。そこで、イエス様は彼らの傲慢と偽善を強く戒められたわけです。
でも、今日の福音のポイントは、律法学者たちやファリサイ派の人たちへの戒めにあるようには見えません。むしろ、ポイントは、「あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」という箇所にあるような気がします。つまり、今日イエス様は、御自分に従う人たちは皆兄弟姉妹であることを教えるために、律法学者たちやファリサイ派の人たちのことを引き合いに出されたのです。それは、「信仰のある人たち、すなわち、わたしたちが皆兄弟姉妹であるべきで、決して律法学者たちやファリサイ派の人たちようになってはいけない」ということでしょう。それでは、わたしたちが律法学者たちやファリサイ派の人たちのような人とならないためには、どうしたらよいでしょうか。
皆が兄弟姉妹として生きていくためには、最も大事にしなければならないことがあります。それは、神様のみ旨に思いを巡らせ、それに素直に従い、また、行うことでしょう。今日の第一朗読で、神様はマラキの口を通して、祭司たちを戒められました。それは、彼らが「道を踏み外し、教えによって多くの人をつまずかせ、レビとの契約を破棄してしまった」からです。そして、「神様の道を守らず、人を偏り見つつ教えたから」です。その時代、祭司たちは自分たちの立場を忘れて、様々な形の力を振るう者たちの仲間となり、神様の道を教えようともしなかったでしょう。その結果、イスラエルの民は神様のみ旨を学べず、正しい道を踏み外してしまったのです。そこで、神様はその責任を祭司たちに問われたわけです。
しかし、その責任は祭司たちだけにあるわけではありません。勿論、直接的には祭司たちにその責任があるはずですが、一方、神様のことより、自分のことや世間的なことに捕らわれて、神様から離れてしまった民にも責任はあるでしょう。今の時代のわたしたちも同様です。一番大事なのは、先ず、神様が何を望んでおられるのかを思い巡らすことです。みんなが一つとなって、神様のお望みを聖霊に導かれて思いを巡らすこと。シノドス的な言葉で表現したら、それは「共同識別」となるでしょう。個人的な思いや考えを固守することではなく、神様の霊の導きにすべてを任せ、その導きと教えを素直に受け止めることが大切なことです。
その上で、何をするにせよ、皆が兄弟姉妹として一つとなって共にし、共に色々な知恵と経験を分かち合い、互いに尊重し合うことが必要です。「先生、親、教師、監督のような立場」を捨て、「神様の子供たち、兄弟姉妹」となって生きていくことこそが、わたしたちに与えられる真の喜びに違いありません。その神様から与えられる喜びの前には、あらゆる条件や基準、差別があってはいけません。ただ、みんながその喜びを与えてくださった神様に感謝しつつ、味わうことだけです。それも神様にとっては、大きな喜びとなるでしょう。わたしたちは皆、神様に対しては「神様の僕たち」ですが、互いに対しては「兄弟姉妹」なのです。モーセの座だけでなく、神様の玉座まで貪った律法学者たちやファリサイ派の人たちのようになったら、それは大変でしょう。互いに、愛し合い、認め合い、受け入れ合い、励まし合いましょう。それによって神様の慈しみと愛とわたしたちの兄弟愛は証しされるはずです。わたしたちの共同体がそうなるためにお祈りいたします。しばらくの間、黙想しましょう。