今日イエス様は、耳が聞こえず、口がきけない人を癒してくださいました。彼は、福音の宣教活動から帰って来られたイエス様のところに、多くの人々に連れられてきたのです。イエス様は先ず、彼だけを連れて別のところに行き、それから、不思議な方法で彼を癒されました。ご自分の指を彼の両耳に入れ、唾を付けて彼の舌に触れられたでしょう。そして、天を仰いで息を吹きかけながら、「エッファタ」と言われました。それは「開け」という意味で、その意味どおりに、彼の耳と口は開かれ、聞くことも話すこともできるようになったわけです。ところが、イエス様はその出来事について誰にも話さないようにと命じられました。しかし、その命令にもかかわらず、人々はイエス様を誉めながら、イエス様の様々な業を言い広めたのです。

今日の福音について、幾つかのことを分かち合いたいと思います。まず、多くの地域を歩き回りながら神様の国の良い知らせを告げ知らせられたイエス様のことです。どれほどお疲れになったでしょうか。それでもイエス様は働かれました。群衆に連れてこられたそのかわいそうな人を、また憐れんでくださったでしょう。神様の慈しみ、イエス様の憐れみは休む暇もありません。わたしたち信仰者も、慈しみと憐れみを忘れずに生きていくことができれば幸いです。

次に、イエス様はそのかわいそうな人を群衆から連れ出して、別の所に行かれました。それは、ご自分のなさることを見せたくなかったからでしょうか。いいえ。イエス様は、ただ彼だけとの時間を設けたかったのだと思います。何も聞こえず、何も話せなかった彼は、どれほど辛くて苦しかったでしょうか。イエス様はご自分の疲れを忘れて、彼がご自分と一緒にいられる特別な時間を許してくださったでしょう。それと同じく、イエス様はわたしたちとの密かな時間を望んでおられます。その時間は、観客の[観]と、黙想の[想]で、[観想]とも言われますが、心の奥深い所での時間、自分の存在感まで忘れるほど深い黙想の時間なのです。忙しい日常の生活の中でもイエス様に導かれ、その密かな時間の霊的な喜びを味わってはいかがでしょうか。

さて、イエス様はその人を不思議な方法で癒してくださったでしょう。ご自分の指を彼の両耳に入れ、それから、唾を付けて彼の舌に触れられたのです。そして、天を仰いで息を吹きながら「エッファタ」とおっしゃいました。この場面から何が感じられるでしょうか。神様の優しい御心、イエス様の愛が感じられるような気がします。その愛は、人間のことをことごとく癒し、慰め、力づけ、また新たにしてくださる神様のみ心でしょう。実に、イエス様のこの行動と言葉は、新しい創造のしるしでもあります。イエス様の愛は、人間を新たに造り上げることができる力を持っています。それは、神様が初めて天地万物と人間をつくられた時と、全然変わらない同じ愛だったのです。その愛を持っている信仰者は、自分だけでなく、周りのすべてを新たにすることができるわけです。そういう信仰者となれるよう、お祈りいたします。

最後に、イエス様によって癒されたその人は、生まれて初めて聞き、話せました。果たして、何を聞き、何を話したでしょうか。彼に初めて耳を傾け、彼に言葉を話すことを教えてくださったのはどなたでしょうか。イエス様ではないでしょうか。イエス様はこの出来事を通して、わたしたちが何を聞かねばならないのか、何を話さねばならないのかを示してくださった気がします。イエス様はそんなわたしたちにいつも耳を傾け、み言葉を教えてくださいます。エッファタとは、自分をイエス様に開くことです。今日もイエス様は御自分との時間にわたしたちを招き、連れて行かれるはずです。これから、その時間を心静かにして準備いたしましょう。