今日の福音は、洗礼者ヨハネの色々な勧めから始まります。彼は自分のところに来た様々な立場の人たちに、相応しいアドバイスを与えました。でも、彼らの質問は同じだったでしょう。それは、「わたしたちはどうすればよいのですか」ということでした。彼らは、何が正しい生き方なのかを尋ねたのです。そこでヨハネは、群衆には「下着を二枚持っている者は、一枚も持たないものに分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ。」と勧めました。また、徴税人には「規定以上のものは取り立てるな。」と指示しました。そして、兵士には「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ。」と教えました。とてもシンプルな勧めです。では、なぜ人々はヨハネにそういったことを尋ねたのでしょうか。
それは、福音にも書いてある通り、民衆がメシアを待ち望んでいたからでしょう。ローマの植民地の民として、イスラエルの人々は苦しみ、打ちひしがれていたに違いありません。民衆は、総督やローマの兵士たちだけではなく、イスラエルの指導者たちからも苦しめられていました。そんな状況の中で、民衆は、自分たちを正しく導き、治め、また、様々な苦しみから解放してくれる指導者を待ち望んでいたわけです。そこで、民衆はそれぞれ、正しい指導者だと思(おぼ)しき人を捜したり、彼らに従ったりしていたのです。ヨハネもその一人だったでしょう。でも、ヨハネは、自分はそうではないとはっきりと明言しました。ヨハネは、「自分よりも優れた方が来られるが、自分はその方の履物のひもに触ることさえできない」と、言いました。そして、「自分は水で洗礼を授けるが、その方は聖霊と火で洗礼を授けられる」と、明白に言ったのです。それはまさに、イエス様のことでしょう。その話によって、ヨハネは自分の立場と役目を明らかにしたわけです。それは、まことのメシアであるイエス様の到来を、相応しく準備させるためのことだったでしょう。今日、ヨハネが群衆や徴税人、また、兵士たちに明言したのは、イエス様の到来と、イエス様が授けられる洗礼を準備するための勧めだったのです。
ここで、イエス様のことを少し考えてみましょう。イエス様はかつて群衆に、「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、悩むな。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれは、これらのものはみな加えて与えられる。」とおっしゃいました。すべてを神様に任せ、ただ神様の御心を調べ、それに適うように生きなさいと言う風に聞こえます。また、イエス様は徴税人のマタイに「わたしに従いなさい」と言われ、彼をご自分の弟子に迎え入れられました。多くの群衆の不満の声が聞こえている中で、イエス様はエリコの徴税人の頭であったザアカイの家にも自らおいでになりました。罪びとたちへの厳しい裁き主でなく、彼らの友となられたでしょう。そして、ローマの百人隊長の僕を癒し、彼を信仰の道に導かれました。それだけではありません。イエス様は、ローマの兵士たちにご自分の衣服さえ、惜しまずに施されたでしょう。まさにその方こそ、ヨハネが履物のひもに触ることさえできない方、イエス様だったのです。一見、イエス様はヨハネの勧めよりもっと難しいと感じられることを教え、示されたかのように見えます。でもそれは、イエス様が再び来られるとき、ご自分の手にある箕に、わたしたちが多くの実を残せることを望まれるからこそでしょう。
待降節は、イエス様の誕生を記念しつつ、その再臨を準備する期間です。今年の待降節の間、赤ちゃんのイエス様だけでなく、来るべきイエス様にも、相応しい贈り物を準備することができるよう、お祈りいたします。