そろそろ、教会の典礼暦による1年も終わろうとしています。この頃、私たちは御言葉を通して、いわゆる「世の終わりの日」、つまり、「終末」について聞くことになります。この「世の終わりの日」とか「終末」という言葉は、とても恐ろしく聞こえますが、一方、神様の慈しみと愛が完成されるときを表す言葉でもあります。実際、今日の第1朗読は世の終わりの日、地の塵の中の眠りから目覚めた人たちの中で、ある人たちは永久に続く恥と憎悪の的となるが、ある人たちは永遠の生命に入ることになると語っています。永久な恥を受ける人たちにとって、その日は完全な滅びの日ですが、永遠の生命に入る人たちにとって、その日は完全な救いが現れる日となるはずです。その救われる人たちは、目覚めた人々、また、多くの者の救いとなった人々だと、ダニエルの預言ははっきりと語っています。それは神様の慈しみと愛の中で目覚め、多くの人たちにその慈しみと愛を行う人たちのことでしょう。彼らは神様が自分たちに永遠の命を授けてくださると信じ、その希望の中で生きているわけです。でも、そのような心と信仰の行いのため、むしろ世の中からは様々な苦しみや迫害を受けるときもあります。しかし、神様はその人たちの名前をご自分の救いの書に記しておられます。そして、終わりの日、彼らを完全な救いに招いてくださるはずです。

今日の福音で、イエス様は太陽や月、星などの天体の滅びについて話しながら、世の終わりのことを教えられました。事実、今日のみ言葉の前の箇所でイエス様は、様々な自然災害や激しい戦争を警告し、更に、偽りのキリストが現れることや、多くの人が神様の国が「ここにある」とか「あそこにある」という話に耳を傾けてしまう愚かさについても言及されました。それは何と恐ろしいことでしょう。しかしイエス様は、それらのことが起きても、心を強くして神様を信じ、また、忍耐すれば、皆が救われるということもはっきりと教えてくださいました。今日の福音は、そういう様々な苦難や混乱の後、実際の世の終わりの日、人の子、つまり、イエス様によって選ばれた人たちの救いについて語っています。その日、イエス様は大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って再び来られ、救われることになっている人たちを永遠の国に呼び集めるわけです。この御言葉を通して、イエス様は信仰のある人々が、どんな状況の中でも、強い信仰を持って、イエス様ご自身の掟を守ることができるように励ましてくださったのです。その信仰とは慈しみ深い神様への信仰であり、その掟とは愛の主であるイエス様の「互いに愛し合いなさい。」という掟でしょう。それを教えてくださった方が、それに従った人々を救ってくださらないのはあり得ないことなのです。

今日の第2朗読で、使徒パウロはイエス様の大祭司職について語っています。永遠の大祭司であるイエス様は唯一のいけにえ、すなわち、ご自分の命をいけにえとして献げて、すべての捧げものを完成されました。そのイエス様の捧げものは、すべての祭司が毎年繰り返して捧げるものとは違って、人間を罪と永遠の滅びから完全に救うことができる力を持っているものです。イエス様はそれほど立派な礼拝を、ただ罪深い人間に向かう愛と慈しみの心で成し遂げられました。そういうわけで、使徒パウロは今日の朗読の最後に、イエス様がなさった「罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。」と明確に言及したのです。使徒パウロがこのようなことを伝えたのは、教会の人たちも、イエス様のように、自分の命をかけて互いに愛し合うことによって、その大祭司職に与れることを教えるためでしょう。イエス様はそういう人たちを、世の終わりの日、完全なものとしてくださり、ご自分の永遠の命を授けてくださるはずです。

今日のみ言葉を黙想しながら、わたしたちの現実のことを考えてみました。この新型コロナウイルスのさなかでも、世界の多くの人々は戦争や紛争に巻き込まれて、その命が脅かされています。国々の指導者たちは自分の国民に向かって、まるで自分が「キリスト、救い主」であるかのように、自分が「神の国」を作れるかのように振る舞っています。自然災害ももっと激しくなり、地球の環境はますます悪化し、よくなるようには見えません。多くの人々が真の平和と正義を望んでいても、このような現実は、もうすでにイエス様の言われた通りだという気がします。こんな状況の中で、教会の正しい有様は何かについて、わたしたちも心を込めて真剣に考えるべきだと思います。

ここで、イエス様がおっしゃった「いちじくの木」のことを、信者の皆さんと一緒に考えてみたいと思います。イエス様は、「枝が柔らかになり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。」と言われました。その柔らかな枝や伸びる葉は、夏のしるしでしょう。そのように、イエス様が再び来られるまで、教会はイエス様の再臨のしるしとならなければなりません。言い換えれば、教会はどんな状況の中でも、その柔らかさと成長の力を失ってはならないということです。教会の柔らかさと成長の力とは何でしょうか。それは言うまでもなく、愛ではないでしょうか。愛によらず、教会は柔らかくなることも、成長することも、しかも、実を結ぶこともできません。そうなると、再び来られるイエス様のしるしとなることもできないでしょう。教会は愛で世を変えようとされる神様のしるしとなるべきです。わたしたちはどんな状況の中でも、共に歩むようにと、イエス様の愛によって選ばれ、また、結ばれている人たちです。これからも互いに愛し合いながら、柔らかで丈夫な教会となって、神様のしるしとしての使命を果たすことができるよう、お祈りいたします。

/神父様のお説教ふりがな付き

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