預言者エリヤの時代、3年6ヶ月の間、イスラエルは大きな飢饉に襲われました。その飢饉は神様からの罰でしたが、その時代イスラエルの王は、バアルという偶像を敬う偽りの預言者や司祭たちと一緒になって、国民を正しく導くどころか、自分たちの権力や利益を守ることだけに目がくらんでいました。その結果、国民も神様を遠ざけ、信仰の道には心を置かず、各々自分の欲心を叶えるようになったのです。そのため、神様は預言者エリヤを王に遣わして、大きな飢饉があると告げさせた後、彼をサレプタの一人のやもめのところに送られました。それはエリヤがそのやもめに助けられ、長い飢饉を乗り越えられるようにするためで、今日の第1朗読はそのやもめとエリヤの出会いを語っています。神様が下された厳しい飢饉の中で、やもめは自分の息子と共に最後の食事をし、それから死ぬことだけを待つつもりでした。彼女は最後の食事を用意するために薪を拾っていましたが、そこに現れたエリヤは、彼女に自分のための水と一切れのパンを求めました。最初、やもめは自分の思いを正直に話して、エリヤの要求を断ろうとしました。それを聞いたエリヤは、彼女がその考え通りにすることを許しましたが、先ずは自分のための僅かの食べ物としてパン菓子を作ってくれるよう頼みました。そして、エリヤが、神様が自分とそのやもめを厳しい飢饉から救ってくださることを伝えると、彼女はエリヤが言ったとおりにしました。そのお陰で、自分も自分の息子もその飢饉を乗り越えることができたのです。このやもめの話が示しているのは、神様がわたしたちに求められるのは大きくて素晴らしい信仰や捧げものではなく、わずかの信仰だとしても、心を込めた信仰であるということでしょう。

今日の福音で、イエス様は律法学者を指して、彼らのような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けると断言されました。その律法学者たちは自分の身分や知識、仕事などが他人に認められることを好み、更に、それをもって弱い人や罪のない人を虐げていたのです。また、自分たちの権威を表すために、長い衣をまとったり、長い祈りをしたりしました。でも、そういう衣や祈りは自分たちの偽善を装うことに過ぎないものでしょう。その偽善的な様子と比べるかのように、イエス様はあるやもめの献金について話されました。彼女は多くの金持ちがたくさんのお金を賽銭箱に入れている最中、たった二枚のレプトン銅貨を献金したのです。それを見つめておられたイエス様は、弟子たちに、そのやもめこそ他の人たちよりも多くを捧げたと言われました。イエス様はその理由として、「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」と言われ、神様への真の信仰の姿を教えられたのです。

実に、神様が望んでおられる信仰とは、世の中の基準のように、色々な知識や素晴らしい役割を通して表わされるものではありません。しかも、多くの献金によって表現されるわけでもありません。むしろ、小さくても素直に神様に従おうとする心と、それに伴う行いによって示されるものなのです。今日の福音でイエス様があのやもめを誉められたのは彼女の経済的な貧しさではなく、信仰の豊かさでした。多くの人たちが自分の知識や仕事、経験や役割、財産や身分などを誇りながら、もっと多く、更に、もっと強くなろうとしていましたが、イエス様はその中の誰をも褒められませんでした。なぜなら、そういう風潮に染まっている人たちによって、もっと多くの人々が苦しめられたり、涙したりするからです。それは神様の望まれることではありません。イエス様ご自身も御父のみ旨を果たすため、すなわち、世の中の様々な苦しみや悩みに苦しんでいる人々、自分の罪と過ちで悲しんでいる人々を慰め、救うために来られました。その救いの御業を全うするために、イエス様はご自分の栄光をすべて捨てられ、世の中の誰よりも貧しい人となられたのです。そして、十字架に付けられる前には、ご自分の衣服さえ与え、十字架上では命さえ惜しまず捧げられました。イエス様が教えられたのは、もっと強く、豊かになることではなく、自分をへりくだってもっと弱くなることだったでしょう。そういう謙遜と貧しさを通して、イエス様は神様の慈しみと愛を示され、また、それらを実践されました。こうしてイエス様は今日の第2朗読が語っているように、ただ一度ご自分の命を捧げて、すべての人に救いをもたらす永遠の大祭司となられたわけです。わたしたちがその救いに与る為には、自分たちの知識や経験、役割や立場をもっと豊かで強いものにすることより、わたしたちの為に弱くて低くなられたイエス様のようにならなければなりません。それによって、だれ一人としてこの信仰の道から軽んじられることなく、みんなが共に歩むことができるのです。その時こそ、教会は神様との交わり、人との交わりのしるしとなれるでしょう。

ところで、わたしが毎日見ている「水戸黄門」というテレビドラマに有名なセリフがあります。「この紋所が目に入らぬか。こちらにおわすお方をどなたと心得る。おそれおおくも前の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ。ご老公様の御前である、皆の者、頭が高い。控えおろう。」というセリフです。さて、これがイエス様ならどうでしょうか。きっと、神様の天使たちは次のように叫んでいるはずです。「この十字架が目に入らぬか。こちらにおわすお方をどなたと心得る。おそれおおくも神様の小羊、イエス様にあらせられるぞ。この救い主の御前である、皆の者、頭が高い。控えおろう。」と。これからも、わたしたちがやもめの貧しさを愛され、また、自らへりくだって、ご自分のすべてを惜しまず捧げてくださったイエス様に倣うことができるよう、お祈り致します。

/2021年11月7日姜神父様の説教とふりがな付き(ワードファイル)

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